カウンセリングと診察

まさか当たり前のようにこんな標題で記事書いてるとは3年前は思わなかったな、と思いつつ、1時間喋っていて思ったのは(もっとも、途中で不動産屋から電話が入って喧嘩したりしてたので中断はあるのだが)そう、詰んでるんですよ、ということなわけで。詰んでるなりにどう生きたらベターかを考える旅なのだけど、32歳のころ、自分の人生で今が一番幸福だなぁと思っていたのはそのまま、34歳の自分が見ても、32歳の自分が一番幸福だなぁと思うわけで、具体的に、自分が(というのは、非コミュでそれなりにあたまがわるい人が、という意味で)34にもなって、会社員やってるのはおかしいだろ、老害なんだし、というあたりで詰み。でも、非コミュでそれなりにあたまがわるい人が仕事をするのに適した年齢はとうに過ぎているのに、まだ体力的に、死にそうにないんだよね、ということ。それを、そのままの言葉で喋っておらず、どこか綺麗事にして喋るから、カウンセラーさんはおっとりした雰囲気ではあるけれども、なにか見透かされている可能性を意識して、自分は羞恥心を感じたのじゃないかなと。セノビー

でも、お金が絡まないで人と会話をする勇気なんてない、という自分からすると、お金を払い、羞恥にまみれて会話している図も悲惨だよな、救いがねえなと思うので、違うお金の絡み方=仕事方面へ、という点で考えると、それにしても、やはり詰んでる自分が誰かと共同でなにかをやる、ということに対する罪悪感は結構強烈にあるのだよね、俺じゃない人に交代すればもっとうまくいくはずだよね、と。そもそも詰んでない人がリアルで、なんで詰んでる俺と会話をしなきゃならないんだよと思う。「罪悪感」が言葉の綾というかおセンチな物言いにすぎるとすると、もっと具体的には、アレルギー反応が出て健康を害すレベルのストレス、と言い換えてもいいし、罪悪そのもの、と認定・射殺されてもいいのだけど。

べつに職場で物理的に殴られたり射殺されたりするわけじゃないのだから自分の生活資金のためだと思って毎日通ってたらいいじゃんと思ってもそれは、生活資金が尽きるまでは無理だし尽きたら尽きたで食べていける日本はもう少し続きそうだし、はぁ。



生活レベルでは、以前なら、なにか買うことでやり過ごしていたもやもやを、今は、捨てる苦労を想像してから買うことにしているので、なにも買えない、となると、なにもやることがない。

株やるぐらいなら川にお金捨てたほうがマシだし。自分に注文ボタンをクリックする才能のないことは分かりきってるので。ただ、金目当ての奥菜恵に言い寄られて断る構図を夢見るだけ。