眠れない理由

暴飲暴食がまた始まっていて、神経が減食からエンゾに移行しているからだろうと思う。いや、エンゾなら良いのだが、もう少し狭く、自転車に関心が集まりすぎている。ち、ち、地図ばかり見ている。国土地理院に勤めればよかったのだろうか。
大学が終わって、海外放浪に集中して3年、プログラマに集中したのが3年、株で3年、ブログで3年、次は自転車に3年?
そういう3年周期のマイブームのようなものがあって、本当は東京に引っ越してさぁ同棲生活に3年という憧れがあったはずなのだが、さて、彼女の言葉のいくつかは永遠に消えないんじゃないかと思うほど。というか、その言葉と格闘する日々といってもいいぐらい。それを自分との闘いと呼んでもいいのだけど、彼女との闘い、あるいは、世間との闘い、と呼ぶほうがしっくりする気分もあり。でもそれを踏まえてこそあらためて分かる、という感じのあれこれもあるし、そういうもんか。大袈裟か。
親しい人が亡くなると、どうしてもっとこうしてやれなかったのだろうとまわりが後悔する心理を村上春樹は、だったら生きてるうちにそうしておくべきなのに死んでからみんなでそろいもそろって鸚鵡みたいどうしてもっとこうして・・・と言うのはクズだ、と13歳のユキに向かって言ったあと、僕はこんな幼い子になにを言ってるのだろう?と自問するシーンはもちろん、ディック・ノースに対する追悼と困惑の気持ちを表現するための文章技巧といえばそれまで、緊張して震えている人を描写するためにタバコを持たせるようなもの、といえばそれだけのことなのかもしれないけれど、でも、読んだ当時の自分はそれなりに結構「文字通り」に感心していたのだからどうなんだろうとも思う。
その反省を踏まえることもなく、たとえば今もしも、エンゾ早川の言う、人生に本当はたったの2回しか訪れない運命的な出会い、というものがやってきたとして、それを捕まえる体勢にはぜんぜんなっていない。つまり、エンゾごときに影響を受ける俺オワタなんだよ!と思うことに。
関われば好きになるかもしれない人に対してはもうすでに盲目であり、関わろうとしないで、見ているだけで好きになるような、某の人しか見えないで。どんだけーだよ。そういうのを客観的に見たらもはや、非モテは女を外見でしか見ていない式の指摘が当たるような状況でないと言い切れないレベル。いや、某でさえ、きっかけは外見だものな。しかも細工されて。
そういえば前回は少しだけ踏み込んで、とはいえやはり仕事がつまらんのです、自分のやっている仕事がなんの役に立つのか分からないのではなく、なんの役にも立たないのです。なくてもいいようなお客としか思えない相手に、しがらみで売りつけているのです、営業が売りにいって、でもおたくは○○の会社じゃないから専門外でしょう?とつっぱねられてスゴスゴ帰ってきた話を聞いた件を役員に話しても、いやしかしこうなんだよ、だから俺たちはこうやっていくのだよ、という説得力のある話は聞けなかった。ただただ、ゴルフで焼けた健康的な浅黒い肌の印象ばかりが・・・これが会社に「入る」ということなんですね。
クリスティーヌだか、エリザベスだか忘れたプラハから来たという女の子が全裸のくせに、ねぇ私もビジネスライクなおつきあいは嫌よ、プラハでは「通常の」マッサージ店で働いているの、それでココには楽しむために来ているのよ、だからお話しまょうよ、あら、飲み物が空よ、なにか飲まないの? 頼んであげるわ、それを飲んだら、奥の部屋に行きましょうよ。中国人は嫌いだわ、日本の男の人って好きよ、云々、ボットかよ、ぐらいに流暢に語る。建前。
建前にせよ、ビジネスはビジネスライクにやるべきではなく、楽しむために来ているのよ、にならないとお金にならんだろ、の世界はどこにあるのだろうか。お客は、本当のお客は、だから、誰がキーマンで、予算を引っ張ってこれる人は誰で、その人さえ取り込めば式ではなくて、最終的に楽しむのが誰で、その人の楽しむ姿を見て楽しむ人が誰で、その楽しみのためによしじゃ契約しましょう式の、ビジネスライクでないビジネスが行われていて、その楽しみの歯車の中でなら仕事は楽しめますよ、つらくても頑張れるし心が腐って酒におぼれる必要もなくなるのですよ、というお話はもう、どこにあるのでしょうか。
ドラッカーさん、分業、選択、集中はいいけれど、そしておのおのが役割を自覚するための教育もよいけれど、接点は人でしょう、その人のプライバシーを覗かずにその人の楽しみは見えないでしょう、そして、たぶんにして自分がその一人であるところの、実は楽しみの連鎖に加わることに挫折しているような歯車の人があいだにいて楽しみが断絶したビジネスでは決して、茅ヶ崎自転車屋さんのような自己調和力を存分に発揮したお仕事はできないのだよ、どうすればいいのよああもう3:33か。