祖母と二十世紀
- 作者: P.F.ドラッカー,風間禎三郎
- 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
- 発売日: 1979/03
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傍線の場合もそうだけど、あとで読み返してみると、なんでそんなところに傍線を引いたのだか分からない、ということが多い。そうでない場合もあるけれども、傍線部単体できちんとアフォリズムを形成しているケースはむしろ稀れ、敢えて読み返してみてもなんすかこれ、になることが多い。ちょうど好きな曲の歌詞だけを抜き出して文字にしてみても、曲を知らなければなにも伝わってこないケースがほとんどであるように。
そう思っていたのだけど、でも読書をした経過の実況そのものは、集めて並べると、それはそれでそれなり(http://d.hatena.ne.jp/Blue-Period/20090202/1233582797)と感じることもあり、だから傍線より優れているし、読書のたびに小さなPCの電源を入れるなんてことは考えられないから携帯が良い、ということで、電池管理はもう少しなんとかしないと。
- 「私たちの誰もが、戦争が終わるなどとは夢窓だにしていなかった。事実、私と同じ年頃のどの子供も、「大人になったら」というのは「召集されて戦地に送られたら」ということだと心得ていた。約6時間 ago from movatwitter
- 「祖母のこういった態度は、自分の住んでいるアパートのすぐ近くの街角に立っている夜の天使に対してさえも変わらなかった。誰もが見て見ぬふりをしている中で、祖母だけはいつも親しげに「今晩わ」を言い、「それにしても風が冷たいわね、リジーさん。スカーフをお持ち? しっかり被っていら ...約5時間 ago from movatwitter
- っしゃる?」とか何とか声をかけるのが通例だった。約5時間 ago from movatwitter
- 「それに第一、私は男じゃないのよ。約5時間 ago from movatwitter
あと、これ、
有吉弘行の「ブレイクするっていうのはバカに見つかること」は至言で、最近の流行の大体は、「ユーザーに発見させたようにみせること」で成り立つ。東方しかり、ひぐらししかり。自分らが見出した面白さといったような共有意識が一定量を満たすと跳ねる流れがある
http://twitter.com/igi/status/1612350581
へぇぇそういう読み方ですか・・・というか、東方とかひぐらしとか知らないけど、もう自分の読書が完全に追いかけ型になっている・・・つまり、書店をうろちょろとかはしなくなっている・・・そういうの、自分で見つけた感のないことの憂鬱感覚はある。『世界の終わり〜』は自分で見つけて読んだ。でも、それは日本一の流行作家の本だと知った、とか、分裂勘違い君劇場を自分で見つけて読んだ、でも、それははてなで話題の釣り師でもある(だけじゃないにせよ)ことを後で知った、とか、そういうの。
この本自体はハックルさんの記事で興味を持って、標題の章だけまず読んだ。
「それに第一、私は男じゃないのよ。」と祖母は言う。
娼婦をとりあげる男子作家は多いのだけど、またそんな作家や作品を愛する男子ブロガーも少なからずだと思うけど、そういう人たちより強いのは、
「それに第一、私は男じゃないのよ。」
バートンフィンクに出てくる、私設秘書を装いながら実は作家であったオードリー、とか。
あと、 とか。
祖母はつねづね、とりようによってはおかしな忠告を孫娘たちに与えていた。「お前たち、外出する時には必ずきれいな下着をつけていくんだよ。何が起こらないとも限らないからね」 孫娘の一人が面白半分、腹立ち半分で反駁した。「でも、おばあちゃん、わたしそんな類いの女じゃなくてよ」
「自分がどんな女か、その時になってみなけりゃ判りはしないよ」