1991-

「うちなー、元キャバ嬢やってんかー、そんで、慰安旅行みたいのがあったの、別府に1泊と、中洲に1泊、ほんとはボーイさんだけなんだけどそこはあたしらも呼んでもらえて、めっちゃ楽しかった、あの頃が一番楽しかったなー」
見た目はともかく、話がぜんぜん幼くない。平成生まれのくせに。
「温泉に入るの?」
「あーいちおう露天とかあったけどー、とにかく昼からずっと飲んでて、めっちゃ楽しかった。あと中洲でラーメン食べた!」
(あの、未成n・・・)
 
「でさ、その名前、ミクって、自分でつけたの?」
「あ、これはー、お店でつけてくれるのー」
「そうか・・・」
「かわいーでしょ、みくにゃん!」
 
それはともかく元キャバ嬢、というのはなんなんだろう。ひとつのキャラクターとして完成されている感じはする。いや知らんよ、なんでこっちに来たのかは。
会話していて、またハックルさんのアレ、を思い出した。

私が思うに、世の中には、いつまでもバッタのように個別の問題に取り組んでいる人がいる。一般化することができずに、コンセプトを把握することができないでいる。科学者にもいるし、ビジネスマンにもいる。ところが優れたビジネスマンは、優れた科学者や優れた芸術家と同じように、ヘンリーおじさんと同じ頭の動きをする。最も個別的、最も具体的なことから出発して、一般化に達する。五〇年前の当時、人はまだあまりに経験志向だった。システム、原理、抽象化が必要とされていた。事実、私は当時、数論理論学と出会って一種の開放感を味わったことを覚えている。しかし、今日ではわれわれは、逆の意味で再びヘンリーおじさんを必要とするに至っている。今日ではあまりに多くの人が、検証抜きの定量化、形式だけの純粋モデル、仮定による理論に傾斜し、現実から遊離した抽象の追求に耽溺している。今日のわれわれは西洋における体系的思考の原点ともいうべきプラトンの教えを忘れている。まさにプラトンの言うように、論理の裏付けのない経験はおしゃべりであって、経験の裏付けのない論理は屁理屈にすぎないのである。
『傍観者の事時代』『アーネスト・フリードバーグの世界』P.F.ドラッカー

つまり、自分がどうしてママチャリでここまで来たのかを話した後、すぐに彼女は自分がどうしてドレスをオークションで買うのかを語った。最も個別的、最も具体的な私の話から出発し、一般化に達した後、コンセプトを把握し、それを自分の例にあてはめて、つまりこういうことでしょ、わかるー! という話の仕方をする。(まぁ、多少違うんだけど)でもそのスピードがすげえな、と思っていたのだが、それはただの幻惑かもしれない。