日記

眞鍋かをりがブログをやめたし、自分も更新頻度は落ちたし、どこかの「ブログ」の更新を楽しみに待つ、という時間は、昔あったような形で今あるかというとないし、もうトゥイッターとかフェイスブックなんだろうか、など思うところと、自分は自分で昔からグダグダ書いていることと、そのネットのありようとの関わり方がどう変わるのか、デジタルカメラとか、動画とか。そう、動画に進むのかなと思ったこともあるけれども、そちらはわりと作りこもうとすると面倒すぎることもあるし、少なくとも自分はあんまり続けなかったし、逆に写真のほうに凝ったりしている今、この先、ネットと言わず、生活がどうなるのか、もやもやと考える。
いや書く、てことは、読む、の結果の部分もあるはずなのだけれども、たとえば最後に読んだ小説はカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』だろうか。それ以来読んだという記憶がない。少なくとも感想文のブログは書いてない。書いたものも今は消えてるけれど、読まないで書く、ということのなんとも言えないインチキ臭さみたいなものを嫌悪する気持ちもあるっちゃあるし、でもそれは生活を吐き出す部分で仕方ないのかと思ったり、とはいえ。
写真を撮ると、それは「はじまり」から「終わり」のある撮り方で撮る場合もあるし、べつに前後脈略のない撮り方もあるだろうけれども、「はじまり」と「終わり」のある撮り方で撮ると、それを並べてブログにしてしまうことがある。逆にそのように写真を使わないでなにかを書くというのが非常につらいと感じることもあり、トゥイッターにつぶやき続けていればそれなりにアウトプットの量は埋まるけれどもブログにしようとすると、それはべつにブログだから何文字以上何文字以内という制限があるわけではないのに、どこかそういう形式のプレッシャーに押されて、いや形式を使う人が使えばいいという話と、いや形式に頼ってこそなにかが書けるという話と、ほいじゃそれをプレッシャーてなんだろと思いつつ、着地点が見えないことを原因にして書きやめるとか、とか。
 
 
(そのあと、20行ほど誤って記事消失www)
 
 
つまり、なんの話だっけ。そう、それはなんなのか。なぜ寝ないのか。なぜ午前零時四十九分なのに寝ないのか。ベッドに入らないのか。なぜを突き詰めても仕方ないので、そういうありようでしかあれない、なるようにしかならない、理想の俺」みたいな世界で生きない、つまり理想の俺」を生きていないので理想の俺」を書く」みたいなことを書かない、ということだろうか。理想の俺」ならもう寝ている。現実の俺は寝ていない、と書くような、そんなことはもう書かない、ということだろうか。世の中には、唖然というか呆然というかもう、どうしようもなく安定して思念が吹っ飛ばないというか、支離の滅裂していない生活を生きている人がいて、それを理解できない。そうしてそれが溜まって行く感じでもないというありようを分からない。
分からない、知らない、決められない、自信がない、那覇地検が勝手にやりました、そんな感じに過ぎ行く日々、人間の形をしたネット端末と化した俺、人型ネット端末、画面脳の恐怖、俺は俺の人生を生きているのではない。ただ単に、那覇地検が勝手にやったことなのだ。那覇地検が勝手にやった人生。二本の足の間にささやかな暴力装置を備えた人型ネット端末が、昔は紙だったところのことばを光回線にプリントアウトして京都の烏丸御池やよい軒の向かい、セブンイレブンの上にあるサーバーに送信する日々。一日もさぼらずにブクマ。トゥイッター。少しずつ俺の骨とか筋肉とか皮膚が意味を喪失し、思念が坂の上のクラウドに伝送されていく。本体は0円である。実質0円。使い捨てのプリンター。投資信託(笑)の手数料無料の信託報酬バカ高のあれが世界とすれば、俺はその無料の手数料でしかない。手数料としての人生。それも無料の。