時差、会話、飲み会

20110922t02
たぶん飲み会だったが、気を遣って、誘わないでいただいた、それは良かった。誘われないことで己の身の程を知る量のほうが、出席して知る身の程の量よりも少ないから、いくらか非現実のお花畑をぷかぷかと生きていられる。身の程なんて知ってもなんにもならないのだから。
朝起きれないことが続いているところで、今一度、5年前ぐらいのように、禁煙・ダイエット・早寝などを習慣づけてみようかと思っても、今はハードルが上がってしまっている。一度1年ほどやってみて、そこから5年ぐらいかけてじわじわと元に戻ってゆくのを経験してから、これは本当に10年とか、そういうスパンで考えないと難しいのだと思うと、気構えをつくるところからできない。帰宅してネットにへばりつく習慣も取れない。そのせいで眠れないのも同様。このまままたハローワーク通いをして、どうやって仕事探すのか、なにをして生き延びていけるのか、あるいは餓死か、見当もつかぬ。ただ、貯金をそのままなんとか証券の口座にMRFとして貯めておくのも──ってほどは持ってないが──それはそれで大丈夫なんだろうかという気もするから、寿命、早死にリスク、楽しい使い道がなくなるほど老いる、などを多少楽観的にうつろの目で睨みながら、少し使ったり、やめたり。
昼飯ぐらいでは誘われる(って、決めて誰かと食べるということをしていないので)ことが多くなって、いや以前と同じだが、そういう30分の覚悟というのか、車で送ってもらうと1時間の覚悟だったりとか、そういうのはどこで皆踏ん切りをつけるのか、よく分からない。いや、想像できるつもりだったり、もするのだが。
ヤマガタなんとかさんの言うように(って、言ってたことから飛躍するけども)子持ちでないカメラ男子がそれでもお金をつぎ込むのはエロの要素が絡むからではないのかと仮説を立てる。おかずなしにご飯を食べれないし、ご飯を食べないと生きていけない。そう仮説を立てながらベランダに出て、また一服。カーテンをしめない向かいのカップルは今日もテレビを見ているだけ。かつて国外に出ることなしにきちんとしたPLAYBOY誌を合法的に読む方法はなく、きちんとしたPLAYBOY誌を合法的に読む以外には、ウーマン(すばらしい神様が創造されたこの世で一番すばらしいあちら側の生き物)の2本の足のあいだの付け根にあるものの姿かたちを知る方法がなかった時代と違って、今は画像や動画を入手できるのだけど、一度でも、自分で撮ったものは威力が(自分にとって)違う、というのを経験値として持ってしまうと、もう他人の撮ったものなぞ、ただのEXIFに過ぎない、とまでは言わないまでも。という側面と、それはそれで承認欲求買ってくる!ではないが、カメラ持参で撮りにいくにしたって、会話はかなりせねばならぬのだし、その苦痛で地下鉄を降りたあたりから吐き気を実際に催すぐらいなのだがそれでも頑張って喫茶店で一服し、バッテリーを交換し、レンズをふいて、スタジオの受付に向かうのは、それがしょっちゅうではなく、かつ自分の体調の良い時だけでオーケーの、人との関わりを保とうとする試みの一形態(悪い言葉で言えばカタワの、なんだけど)なんじゃないかと思う。一方的にこちらで日時の決まらないのはしんどい。とか、そのあたりに非モテの根源が・・・!ぐらいの。
飲み会に行った人々、最近こそ減ったが、かつては、という意味では、毎日のように飲んでいる、会話が尽きない理由が俺には分からない。
他人に対して関心があるとかないとかの話、関心がある、を、仮に「コラボすることでウィンウィンになるようなアクションを想像できる」に置き換えてみると、職場を見渡してみて、いろいろ自分に絶望したりする。
ネットより、夏目さんのこころを読んでいたほうが楽しいかもしれない。村上春樹の再読は不可能だから、再読可能な、誰か、たぶん30人ぐらいはすぐ浮かぶと思う、そのへんから、読んでいくのがいいだろうか。
などつらつら考えてもキリが(死ぬまで)ないので、またレンズのことでも考えよう。。