実現しなかった夢

ブログを開始した当初から俺は自分の飯とかの写真をアップロードして、一言二言、おもしろいことが書けて、それが1時間以内で書けて、さくっと毎日投稿していく感じになればいいのに、と思っていたのに今では1記事書くのに2週間とか4ヶ月とかかかり、それがまたちっとも面白くないフローとして流れていくことに絶望感を感じないほどには老いてきて、そんなことは気にせずに自分の思考のもやもやを書きながら眠くなるのを待つというツールとして使えば昔のように更新が途切れることがなく、更新が途切れないということは書くのに2週間とか4ヶ月とかかかることがないわけだからとてもフローっぽくて生活のリズムとして良いと思うのだが、どうしてもそうはいかない。今日だって目覚めたのは13時頃なのだが起きてから深夜の今までずっとブログを書くことを考えていてまだ書けていないわけだ(と、書いてから今日はもう何日目だろう?)。そんな日々が明日も明後日も、たぶん仕事を干される日(今年はたぶん大丈夫だ。たぶん来年だろう)まで続く。
真性引き篭もり: 普通の女子大生は、Google+で「日本一」になんかなっちゃいない。」という記事がとても面白かった。この人の記事をブクマ経由で見ていたころ、その今は亡きブロックブログの仕様というのか(そもそもブロックブログを使っている人なんて他に一人も見たことがなかったのだけど)、ブクマタイトルに記事タイトルが先に来るのか、真性引き篭もりというブログタイトルが先に来るのか、毎度バラバラで直したり直さなかったりをみんなでしていたような、そんなころの。

美しいものを美しいと言う。
それが出来ないのが人の悲しみである。

素敵なものを素敵と言う。
それを口に出せないのが人の苦しみである。

好きな人を好きと言えない。
それこそが全ての絶望の元なのだ。

いいねえ〜としか言えないが。

GPSが正しく新潟県上越市の現在位置を把握するのを待って、コンビニで朝食おにぎりを食べてから走り出す。自転車で走ること自体が久しぶりだったので、しばし気持ちよく風を切って、根拠不明の優越感と全能感を味わいながら、この速さなら言える!この速さなら言える!と思いつつ、なにを言いたいのかが分からないまま、もくもくと進む。
旅の記録の方法 前編 - Blue-Periodさんの日記

言うことができない、というテーマは自分にとって大きなテーマのようでもあり、そうでもないようでもあり、昔新宿歌舞伎町のなんとかいうお店で、どこが気持ちいいのか言わないとしてあげないという意味のことを言われたときに、そういうのもあるのか!と深く感動したことを思い出すのだった。その狭くて一方の壁がひどく汚い個室の中の思い出を振り返りつつ、そういう個室の中でも言えない言葉のいくつかを、どうにか言えるようになるために必要なことをノートに一つ一つ書き出していく自分の姿を想像する。途方もない。そこから(村上春樹風に)左に線を引くのだ。それができるために、前提としてできなくてはならない事柄を一つ一つ書き出していくために。そうしてノートはどんどん前のページへと進み、結局今の自分にできることにはたどり着かない事を知るために。
 

佐々木希は奪われる。
当然である。現実だからだ。現実は奪われる。必ず奪われる。それでいて、何人たりとも佐々木希の力にはなれない。佐々木希を喜ばす事は出来ない。佐々木希を微笑ませる事が出来ない。佐々木希が微笑んだとすれば、それは佐々木希自らが微笑んだに過ぎない。世間一般の男達は決して佐々木希に干渉出来ないのである。

佐々木希が自宅デートを重ね、静かに愛を育んでいるというニュースを読み、>>35 が「のーぞみと和也ー♪ 自宅でにゃんにゃん♪ にゃんにゃにゃんにゃにゃん♪」とスレに書き込むのを読んだとき、そうか、そうだよな、それは知ってることだし別にいいのだけど、嵐の二宮和也という人は自宅でにゃんにゃん♪ にゃんにゃにゃんにゃにゃん♪しても、俺はEOS 5D MarkIIで撮ることができないのだな、と。いくらロードバイク保有する自転車脳で、EOS 5D MarkII の総画素数が2100万画素を越えていても、佐々木希の写真を俺が撮ることはできない。そのような写真を撮るために必要なことをノートに書き出していったところで結論は同じだろう。でもさ、本当に俺が撮ることができなかったり、言うことができないのは佐々木希ではないのだよね。
 

だからこそ無害で安全な希望が必要とされているのだ。そして、その無害で安全な希望こそがAya Sakagutiというインターネットなのである。無害で安全な人間を探し求めインターネットを彷徨い続けた彼らが遂に見つけて辿り着いた希望の人なのである。

ロジックは本文と違う方向に行くけれども、俺はインターネットに空とか夕日とか昆虫の写真をアップロードする奴なんか好きではないのだから、というよりも佐々木希のほうが安全な気がしていて、つまり彼女はドラマに主演してもセリフがなかったり、ドイツ語や英語のペラペラなトリンドル玲奈みたいにバラエティ番組に出てきて身もフタもないこと言ったりしないし、磯山さやかのようにかわいいふくれっつらをして一瞬よろめきながらもああそれは営業用だ、プロのふくれっつらだ、とウンザリしなくていいというか、写真の中の人という感じがすごく安全であり、動画の撮影は禁止です、という感じすらする。

けれどもインターネットの希望はそうではない。インターネットの希望は破壊される事なく永遠に残り続ける。何故ならば彼女らは消えるのだ。音もなく静かに消えるのだ。インターネッターは消える。インターネットの美女は消える。いつの間にか居なくなる。美しい人から消えて行くのだ。

このあたり、「気がついたら自分がネトアになっていた。」のテーマでもあり、「足跡依存症から抜け出した僕は、一生mixiなんてしないと堅く心に誓ったのでした。」のテーマでもあり、というか今読み返したら後者なんて、ほんといいねえ、古くならないねぇ、とか思って感心してしまう。古くならないようであり、典型的にクラシックであり。

その頃の僕のブログについていた、ブロックブログのデフォルトのアクセスカウンターには、簡単なアクセス解析機能があった。IPまでは見られないけど、リンク元は見る事が出来た。そこに、彼女のハンドルネームがあった。はてなrssリーダーからだった。幸せを感じた。幸福感に包まれた。ブログを書き始めて良かったと、その日初めてこころから思った。

それでも、彼女が再び足跡を残してくれる日が来ると信じて、僕はブログを書きつづけた。彼女のはてなダイアリーは、ある日突然唐突に削除されていた。

wwwこんなに「はてな」「はてな」書く人だったっけwwwそうだったねwwwと、なつかしい気持ちになる。

彼女には仕事があって、友だちがいて、夢があって、とても誠実に生きていて、ブログを毎日書いていても、それはただの暇つぶして、本当はブログなんてどうでもよかったのだ。そんな彼女が僕のブログを読まなくなるのは当然の事だった。何故なら彼女とは対照的に、僕には仕事なんてなくて、友達も居なくて、夢もなくて、不誠実に彼女の足跡に依存してブログを書いては寝るだけの生活を送りつづけていた。彼女は美しく、僕は醜かった。彼女には幸せになる資格があり、僕にはその資格が無かった。彼女は幸せになり、僕は行宛も無く彷徨った後で、また、再び、ブロガーになった。

ああ、とてもクラシックだwww少し昔は自分も、こうして好きなブログの文章を引用符で囲って間に感想を挟んでいくブログを書くのがすきだった。今はブログがつまらないものになったのか、それとも自分の見方が変わったのか分からないが、人様の書いた文章をはてな記法の引用符で囲って感想をあいだに挟んでいくような記事は書かなくなってしまった。それはココロなんとかさんが2次情報のブログばっかりだね、と言ったものの影響を受けたからだろうか。俺の最初のホッテントリは分裂なんとさんのブログに対する感想文に過ぎなかった。そんなものがホッテントリしていた。それが最初のホッテントリであり、最初になんとかさんが俺の忍者ブログをブックマークした記事だった。
みんなブロックブログだの、忍者ブログだのを使い、ブログを書いていた。「はてなブログ」? なにをいまさら、という感じがする。ブログはまだいいのだが、ブックマークまで新しくなるというので、お気に入りの一覧よりは自分の記憶を頼りに人のものを見る自分は、その人のブックマークページを直接覗きに行くことが多いので、ベータ版の新しいはてなブックマークを使っている人のページを見て、なんなんだこれは、と感じてしまうのは老いだろうか。
そんな程度になつかしむだけのつもりで真引きさんの記事を読み返していたら、そのあとに強烈なオチが。
「文章のコツ」として吸収されかねないそれまでの端正な文章の最後に強烈なオチがついていて、ああ、これがブログだよなぁと思うとか。