サンテンイチイチ

20120309t01
こういう言い方はおかしいのだが、2009年の2月23日、パスポートを忘れた記事が600usersブクマになって華麗に炎上して以来、写真を大量に投下して文章を追加したタイプのブログを1週間かけて書いて14時間経過してもなお3usersに届かない、てことは、もしかしたら初めてのことかもしれず、そういう意味では昨日の記事のスベリっぷりには結構滅入ってしまったし、その一方で、ようやくそういう感じになったのだなぁという感慨というか、ここは昔のように、あまり世界へ向けて発信というのではないけれども、どこかへ向けて発射という感覚でなしに、頭の中に浮かぶことをつらつらと、いわば呼吸をするように、いや夜しか書けないのだから、寝息のように、つまり寝言のような、そういうブログに戻るんじゃないかなという気がする。左に貼り付けてあるアクセスカウンタは、昔とは違って毎日300ぐらいアクセスがあることになっているのだけど、リファラを見ればもう、過去記事のカウントがほとんどで、新着記事がアクセスを生むということにはならなくなっていることはずっと意識の底にあり、だからこそ、ブクマがつかないとアクセスはつかない、という脅迫感覚みたいなものもあった。でも、それはそれでいいのだというほかにはどうすることもできないし、もっと言えば、俺自体が誰かの「Blog」を読む、ということもほとんどなくなってしまったのだし。
 
 
 
20120309t02
2年前のサンテンイチイチ、俺はなにをしていたかな、と振り返ると、おいでよ! レンズの沼! - Blue-Periodさんの日記 すでにレンズ沼になっていて、はてな村長にブクマされていた。
3年前のサンテンイチイチ、俺はなにをしていたかな、と振り返ると、雨。寒い。なにもする気がしない。 - Blue-Periodさんの日記 ああ、ミュンヘンにいたのですね、と思った。
あああ、書きかけてたんだよなぁ、ミュンヘン旅日記・・・
 
 
 
20111224t01
結局チューリヒの夜は、ろくに写真も撮れないまま、奇妙な威圧感に負けてすごすごと宿へ帰り、翌朝にはミュンヘン行きの切符売場に並んだ。たかが娼婦じゃねえか、なにをビビっているんだ、とは思えど、それでもここはチューリヒだし、あーもーなんとも言いがたいような、ここに記述するのも億劫な劣等感。そして睡魔。日々、夜更かし病に悩まされ、それをブログ名にも冠していた俺なのに、しかし旅に出るとありえないほどに早寝早起きになってしまう。
翌朝。まさか英語が通じないなんてことはないよね、とばかりに堂々と切符が買えるスイスとはお別れ、ここから先は第二外国語で二年やっただけのドイツに入ることになる。通過だけなら二回目だが、自分の足で歩くのは初めての。
 
 
 
20111224t03
同じ先進国民仲間として珍しくもなんともない高速特急でミュンヘンに到着すると、またれいによって宿探しから始まる。ブラブラと、ろくな旅の計画も人生の計画もなく、お金とパスポートだけで徘徊していてもそれなりに旅の成立する東南アジアとは違って、西ヨーロッパの無予約独り旅はこういうところからウンザリしてしまう。宿が高い。飯も高い。予約がないと怪訝な顔をされる。シングルは空いていない。別に寝られればそれでいいし価格以外に要件のない俺でも、相場を知るために何件もまわらねばならぬ。まだ東は良かった。今よりもかなり昔とはいえ、旧東欧圏の、家はあるが仕事のない人々が旅人を招きいれるのに、相手がまともな人物かどうかを見極める敷居は低かった。いや、それなりに英語の通じる日本人なら大丈夫だろう、ぐらいの感じで。しかしここは西ヨーロッパ。いったいこいつは何者なんだろう感覚をヒシヒシと感じる。昔プラハで同宿だった青年は、気ままな一人旅ではありながらもスーツを持参していた。つまり、ナイトクラブ()でナメられないためには、無計画の一人旅の姿は隠して、あたかも仕事の出張で、会社の金で飛行機に乗り、会社の金で宿に泊まる貴族のフリをする必要があるからだ、と彼は言った。へぇぇそんなもんですかねぇと俺は思った。だから他の場所では一緒に行動した彼もナイトクラブ()だけは俺たち(身なりの悪いのが俺のほかにもう一人いた)と一緒には行かないというのだ。だから俺ともう一人の学生は、彼とは別行動で、しかし同じナイトクラブへ行って白人DTを捨てたり捨てなかったりした。彼女がイエス、サーと、軍隊式の敬礼で手を斜めに顔に掲げ、隊長の命令にはなんでも従います、というジョークをしていたのが記憶に残っている。ああいうのをドイツ人なら喜んだりするんだろうか、と思った。
 
 
 
20111224t04
しかしここは東南アジアでも東ヨーロッパでもなかったし、三月のドイツはろくに晴れたりしなかった。それから、パスポートをめぐるトラブルで出発の日取りがズレこんだために、旅の途中でセレスタミンを切らしていた。セレスタミンを切らすと俺は手のひらと足裏の皮膚が荒れ、まともに歩けなくなるし、ペットボトルのキャップをはずしたり、自転車のハンドルを握ったりすることができなくなる。
自転車? 俺は自転車というものが嫌いだった。自分の幼少時代の最初の記憶が自転車で転んで骨折してニョッキリと飛び出てしまった肘の骨(白かった)を無理矢理突っ込んで木板をあててから救急車で病院へ運ばれ全身麻酔をしてちゃんとした位置に戻してギブスをはめてそれから丸一日眠ったままだったのか、目が覚めるとありえないほどにダルく、祖母のくれたポテトチップス(そんなものを麻酔後に食べてはいけないのだった)を食べては吐いてを繰り返していた、そんな思い出しかなく、二度と乗りたくないと思っていた。
けれども、忍者ブログは削除してしまったし、はてなブログは誰にも読んでもらえないし、皮膚病を言い訳にできないゆえの「鬱病」で休職中だからリアルワールドでは人との接点が皆無。このままでは気が狂ってしまうか、もしくは気が狂っている自覚を失ってしまいそうだった。頼りにするのはニコニコ動画だけだった。中学生だか高校生だか知らぬが、みんながすごいとかすごくないとかのコメントを入力して、それが右から左へと流れていくのを読んで時を忘れた。だから自転車でミュンヘンからフランクフルトまで走ったれ、と思っていた。それを動画にしたれ、と思っていた。撮影するための機材、電池が重くて旅は最低のものだったが、それでも、もう少し正気を保つには、それが必要だと思っていた。
 
 
 
20111224t05
ミュンヘンからフランクフルト・アン・マインまでの距離がどれほどか、よく分かっていなかった。およそ400kmから500km程度だろうか。そんな長い距離を自転車で走れるものなのかどうか、俺には見当もつかなかった。そのために何日かかるのか、それもよく分からなかった。およそ1週間あれば足りるんじゃなかろうかと、漠然と想像していた。(のちに自分は426.79kmを19時間58分08秒で週末の土日2日間で走ることになるのだが、それとはまたいろいろ条件が異なった。自国の4つのサイクリングロードをつないで走るのと、見知らぬ異国の街を走るのとではぜんぜん違うだろう)だから陸路ドイツに入った俺は、1週間後のフランクフルト発・ドバイ行きの格安航空チケットを持っていた。このチケットに間に合えばドバイで数日フラフラした後に大阪へ戻れる予定なのであるが、それに間に合わなければ間に合わないで、適当にまたプラハに行くかもしれないし、そこからどこに行くか、どうにでもなるんじゃないかと思った。プラハからブダペストまで出ればダメな日本人はいくらでもいるだろうし、ハンガリー語なら挨拶とカタコトくらいは喋れるし、バスの乗り方も地下鉄の乗り方も分かる。温泉の入り方も知っているし、安い宿のあることも分かっている。



20120309t03
しかし、それを書いている頃にはもう、俺のBlogはTwitterに侵されてはじめていたし、長い文章を書き続けるためには会社を辞めるしかなかった。雨の金曜日、夕飯のネタを買いにコンビニに向かう途中にふと、俺はこのままでいいのだろうか、という問いが二つに分裂しておのおの俺を悩ますのだが、その1つめ、はじめにくるのが、つまり、こうして毎週毎週それなりに平日の日中時間を拘束され続けるライフでいいのだろうか。旅をしようとしたらまず休むところから考えなければならず、休むために仕事の段取りをするてぇのはそうではなく家族のために働く人たちに失礼ではなかろうかとか、そんな態度で働いていたら嫌われてクビに・・・そう、俺をクビにすることは簡単なのだ・・・それは自己責任なのだ・・・されてしまうのではなかろうか、という問い。もう一つは略
 
 
 
20120309t04
細分化された小さな暇ができると無限にレンズのことを考えていた。今のように、つまりそろそろ眠くて限界だ、という時間になるまで、永遠にGANREFのチャートと価格コムの価格と論争、それから、グーグルの画像検索結果とEXIF情報を、永遠に眺めていた。
2012年のサンテンイチイチは、またそのようにして過ごすのだろうと思う。では2013年はどうだろうか。2014年はどうなのか。2015年、俺はEOS 5D MarkIVを買うかどうかで悩むぐらいの生活の余裕が残っているのだろうか。お金が残っているのだろうか。アタマは壊れていないだろうか。カラダはどうだろうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
去年の日記
震災の日(横浜) - Blue-Periodさんの日記