金曜から土曜へ

20121014t06
それがどう足しになるかどうかを別として、midasさんのブコメからつらつらと、俺はつり革につかまりながらぼんやりと、それが雑誌の一ページ、それが載るのにふさわしい既存の雑誌の一ページだとしたら、それを面白いと思って手に取るだろうかという目であらためていろいろのブログを眺めつつ、とはいえ俺は本も雑誌も読まない身であるから当然の帰結として、まぁ手に取らないし読みもしないわなぁ、という視線で眺め、ではなになら読むのか、メディアはなにであれ、なになら読むのか、切込隊長が連載している週刊誌なら買うのか? それともむしろ週刊大衆なら買って読んでいるのか? どれも違うわな、ソープの待合に早く着きすぎてかつ電波が入らない、とかの状況ならギリギリ読むかな、など思ったり。ではなになら読むのだろう。俺が最近それでも間違って買ってしまった本はなんだろうと考えていた。
その一方で毎朝ポストに返事が来ているかどうかが気になって眠れない日々を過ごしたアレはなんでしょうか。コミュニケーションを取る価値のない人間である自分がまだそのことに気づく前の、そうは言っても気づいているべきだったと今からでも思う当時の自分の、それはなぜかとうすうす気づいているからこそそういう手段なんだろうという心の声に勝る好奇心や性欲による欺瞞の、あの技巧に満ちた文面、と当時の自分が考えていたみっともない言葉のかずかずを、俺は今見ることができないのを幸いだと思う。その返事の側だけですら読むことが苦痛になったのはいつからだろう。「当時」より「今」のほうがさまざまのことに気づいているという驕りの正当性はどうか。
ネットは無駄という言い方も本は無駄という言い方もリアルならどうという話もすべて誤りで Something New! を(自分が)見つける可能性の高さを秤りにかけても意味がない。ミラーレスを持っていけばどうか。三脚も持っていればどうか。ロードで行けばどうか。テントも持参したらどうか。スピードをあげたらどうか。高度を上げてはどうか。むしろコンデジでよいか。ママチャリのほうが融通が効くか。すべては誤りで、Something New! を(自分が)見つける可能性の高さを秤りにかけて事前に予想を試みても意味がない。
自分は父親を英語の学習法の記事ばかりブクマする連中を見下ろすような目で見つめているとともに英語の学習法の記事ばかりブクマする連中を父親並みに生活力のある人間であると見なしているし、その他の親族の誰彼をブクマの誰彼にあてはめて見下ろすなり見上げるなりしてもなにもつながらない。まぁ生活力の言い方が妥当でなければ他になんでもいい。昔高橋Tが言うところのある程度の分量という意味での文章を俺は書いたことがないというあたりから思考が続き、たとえば300ページの単行本のような長さの「金曜から土曜へ」を書ければ才能であろう。それを分解してブログでも一続きの統一されたストーリームをなしていたらそれはなにかではあるといえる。そんなことをする気も力もないのだけど、では自分の日記はなにをお手本にしているつもりなのか。
コミュニケーションを取る価値のない人間である自分について、言葉を使って会話するだけの脳スピードがないということの生きづらさ(それは仕事ができないから国からもらう以外に金を稼ぐ方法がない)という側面と、何にもやる気がでないという側面と、どちらも。それでもその凡庸な一人は、それを理由になにがどうなるわけでもないから次善の策としての目隠し耳隠しリアルツイート、リアルブロック、リアルスパム報告であり、ついにはなにも見えなく、なにも聞こえなくなり、そうして、そこからどこへ向かうのだろう。だいたい皆の言う「人生終了」をとっくにしているのになぜ本当に終了してくれないんですかと。
それからタモリ倶楽部を見て有吉先生を見てNAVER尼崎のまとめ・・・これを読んでいるうちに徹夜は確定した。テレビはテロップが出てくるから脳が追いつきやすいだろうか、何度もリピートしやすいし、それよりマインドコントロールの件、俺が過去にいくつかマインドコントロールされただろうか。今もされているだろうか。脱走しても時間をかけて見つければ良い、というのがすごい。本当に重症を負っていないと「事件」にならなかったこと。
休日に電車で2駅とか3駅の移動と買い物ぐらいのHPしかない。イベントがあれば遠くまで出るかもしれない。
もう3時か、もう4時か、から、まだ8時、まだ9時か、昼夜逆転したくない俺はいつ寝ればいいのか分からないでこうして12時間以上書き続けている。自由という恐ろしさ。セレスタミンは今日からDay4。減らそうかと思う。
生き地獄を生きているような気でいつつ、尼崎の件を思うと、俺はもうなにも書くことなんてないよなとも。