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今となっては、こんな感じになる前の、2008年5月以前のブログがあればどういう感じで読むかなぁ・・と思う。2009年以降年末年始は(気温が一番低い時期なんだし)皮膚もろくに再生しない感じでゲームしてるか世界をのろっているかカカクコムを見ているか、という感じで今年も状態は悪く似たような感じで、でも去年・一昨年ほどひどくもなく、親戚まわりはした。その後時間は長くあったが、なにかをするほど元気ではなかった。皮膚が痛いと朝のテンションがとりわけ低いし。
ブログもこの時間にならないと書き始められない感じがあり、それが眠れない理由で朝起きれない理由につながるのだが、それでもかなり意志の力を使わないと早く寝ようという気にならないし(医学的な意味で眠れないという感じではなく、寝ようという意志が出てこないのだ)そして明日から・・・と思うとウンザリである。ウンザリ。無意味のライフがはじまるのだ。
いろいろ捨てつつもモノは増えているから広い部屋に引っ越そうか、とか、ブロンプトンが欲しい、とか。金、金、金か。金を使うことにしか見出せないのはそんなに異常のこととは思わないが、買い物を企画しないと家を出る理由がなく、有り余った時間を食物で埋めるから太る。年末年始に何冊か本を読んだが、選定が悪いのはあるだろうけど、心は動かない。たぶんもっと、100年200年とかじゃなく、もっと遡って今日まで生き残っているようなものを読んだほうがいいのかもしれないが教養もねーからよく分からないのだよな。ただ、ここ数年のあいだかもしれないが、自分は本を読めるほどのアタマじゃないし、という絶望感はわりと深刻。娯楽として本を読めるほど頭がよくないという確信は、それなりに選択幅が狭まってつらいのと、昔読んだことのある時間はなんだったのよという羞恥とかも。
かように自己への関心が薄れていった結果として、空を埋めるためのいわば宗教が必要で、なにか偶像を崇拝したいような部分が出ていてそれが普段リアルでもネットでも見聞きする誰彼との差異の一つかと考えてみる。だから竹中先生の握手会があればいくだろうし、でも実際には見つからないからいかない、のような。自分への無関心」は二段ロケットで、まず役者としての自分への絶望や無関心があり、ついで観察者としての自分への絶望や無関心があり、残った信者としての自分=細胞の、快不快でドライブされるだけのタンパク質みたいなゴミが、政府によって社会によって法律によって生かされている感覚。浮遊。
ああ、そうそう、ストーリーとして「恋愛()」に頼った思想を世代的に?負ったのかなんなのか、いよいよ性欲もなくなって、もともとの人への関心の無さ(という言い方は語弊がありそうだが)もあいまり、その方面をからめずになんのストーリーが立つか、書けるか、書けない=死、みたいな生き方を、つまりラブストーリー抜きでストーリーを書きなさい、という人生を考えなくてはならず、それがわりと本当に見当もつかないのは俺の怠慢や甘え(精神的準備不足)といえばそうかもしれないが、準備し続けてきたのだとしても無理筋なんじゃないかとか。それですぐに自殺に行き着くかというと、金が尽きてないからしない、という消極。
せめて夜にブログなんて書かずにサクッと眠れるようなメンタル。クスリの停止と自己観察。リアルに新たに絶望するよりは気楽な、書物への絶望という意味での読書とか?