Photolog を想像で振り返る

DSC05967
実際に自分の撮った1年以上前のものを見て振り返るということをする間でもなく、NIKONに手を出したあたりから、あるいはもっと正確にははじめに買うことになったマイクロフォーサーズのカメラにマニュアルフォーカスの古レンズをつけて遊んでいた頃から、関心はBOKEHとシャープネスに集中している、俺はひたすらBOKEHと(いやBOKEHの質を云々する気持ちよりもBOKEHとの対比としての)シャープネスを確認するために写真を撮り続けているという感じで、カメラを持ち歩いてなにかを撮ろうとするとき、これはものすごくシャープに写るんじゃないだろうか、背景をボカしたら際立つのではないか、という視点がメインである気がする。そして背景のボケていない写真や、ものすごくシャープに写ると美しいのではないかと思うような人工物のない構図には興味が本当にないのだ。
そうであるからこそ、ふと、本当に、ガジェット視点でなく、「あ、これ撮りたい」と思う機会が俺の生活に本当に少ないのだ、ということに気づくことができる。気づくというのは、そういうことが2ヶ月に1度くらいはあるからだ。そして、「あ、これ撮りたい」と思うとき、俺はそれを撮れないのだ。撮れずにつぶやくだけ、たまにアーバンシーさんにふぁぼられるだけ、そういう感じなのだ。もちろんそういう写真はこれからも撮れないだろう。
撮ることは楽しんでいるが、アップするほうは少しモチベーションの上がらず、それはそれでいいという気もする。そして期末。
入れ替わりがけっこうあり、飯食ったりもして、つくづく、人と話すことを楽しめない身を嘆く感じに。
人の性格を形成するもののうち、生来の要素がかなり大きいという考え方を俺はすることが多い。環境、その他は少ないと思っている。
それ以上つきつめて考えないようにしようというアラームが脳内に鳴って、一服して終わり、にすることが多くなったと思っている。
人と会うことが好きでないのと、写真を撮ることが好きでないこと、そしてカメラを買うこと、もしくは一番欲しいカメラは買えないこと、これらが絡み合っている。

To carry on the analogy of cameras as something that will make you feel sexytime, it was like some dodgy dance bar where one can only look, perhaps touch, but you'd have no chance of taking it home.

カメラによる撮影行為は、あらゆる所有を擬似的に可能にする。神聖な偶像、立ち入りを許されない領域、他人の墓、あるいは手の届かない憧れの人、一切が(擬似的に)あなたのものになる。世界を思うがままに切り取り、自分の一部として同化させていくことで、自分以外のあらゆる他人、物、などが絶対に乗り越えられない断絶の向こうにあることを忘れさせてくれる。

現実においては絶対に到達不可能な異物は、カメラが生み出す「ナルシシズムの夢」の中では全てあなたの一部だ。

大衆は激写する。全てが自分の一部となるように。不可侵なものなどなくなってしまうように。埋められない断絶を尊重することの喜びを知らず、それを自由にさせることを乳飲み子のようにただの屈辱としか感じられず。

「全てが平均化されてしまえ。全てが私の日常の一部になってしまえ」

彼らの、憎悪に満ちた叫びが今日もどこかで響いている。
http://d.hatena.ne.jp/v-o-i-d/20071115/p1

いずれにせよ残りの時間は少ないと思うようにしていると思っている。