"シンプルということ" by Ken Rockwell を日本語に訳した


俺は、2009年のクリスマス・イブ(=これを読んでいるリアル充実の皆さんが熱い濃厚なセックスに励んでいたあの夜)に、700×23cロードバイクで四国八十八霊場・非モテお遍路さん野宿の旅へ - Blue-Periodさんの日記という記事をはてなダイアリーに投稿した。
それから4年になろうとする今でもなお、この記事を読んで、"私も自転車で逝ってきました"、"写真が綺麗ですね" というコメントをもらうことがある。四国だぜ? Blog、素晴らしい。
その頃に俺が使用していたのは、CASIOのEX-FH20というコンパクトカメラで、携帯端末を除けば、自分が初めて自分で購入したカメラだったと思う。ダイヤルを山マーク、夜景マーク、どちらにに合わせるか、それ以外はなにも考えずに撮っていたカメラである。
 
それとちょうど同じ年の同じ日に、カメラ・レンズの辛口レビューサイトで有名な Ken Rockwell 氏が、「Simplicity」という記事をアップしている。
当時の俺がこの記事を見つけても、その意味が全く分からなかっただろうと思うのだが、その後いろいろあって、ツイッターのBio欄に「EOS5DMarkII / SONY A55 / OLYMPUS E-PL5 / SONY RX100 / BESSA R3M / PENTAX W60」などと、保有カメラの名前を羅列したい誘惑に負けそうなほどの写畜と化した今、その記事内容が身に染み渡るのを感じたので、翻訳した。俺のために。
 
 
 
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SIMPLICITY   Ken Rockwell

前置き

シンプルさとは、写真において最も重要なコンセプトである。
この記事では、機材のシンプルさについて書きたいと思う。アイデア、見せ方のシンプルさは勿論もっと重要である。これには構図のシンプルさも含まれる。

単純さは力だ。単純明快であればあるほど、相手にはよく伝わる。シンプルな構図は、より強く働きかける。より強い感動を呼び、より多くの人々に認められる。

この記事の内容は、世に多く出回っている記事の内容とは全く異なる、しかしとても重要な話である。すなわち、あなたが持つカメラが、シンプルであればあるほど、そして機材の数を減らせば減らすほど、より良い写真が撮れるのだ、という話である。

機材のスペックなり、他の気を散らす様々なファクターを減らせば減らすほど、本当に自分が撮りたい写真が何なのか、という答えに近づくことができる。
 

機材沼

 
私は、1973年11月16日、最初の小さな一眼レフカメラを購入した。ミノルタのSR-1に、53mm F2のレンズと、クリップオンの露出計がついたもの。60USドルだった。
その年のクリスマスに、最初の無駄物買いを行った。VivitarのTマウントレンズ。200mm F3.5だ。そこからはもう、坂を転げ落ちるように、年に100本近くのレンズを売買した。そして気づいたことは、最初のミノルタ53mm F2だけあればそれで済んだのだ、本当に必要なのはそれだけだったのだ、という事実である。

カメラ・レンズ売買に費やした時間を、もっと「見る」ことを学ぶ努力に使っていれば、写真はもっと上達していたはずなのに。

我々は、新しいレンズを買い続ける。もっと広角が必要な場面では、もっと広角のレンズを使ったほうが良く撮れると信じて。すべてをフレームに入れることができる、といっては広角を買い、遠くがもっとよく撮れるといっては超望遠に手を出す。月の上のスポーツ写真を撮れると信じて。

間違っている。

機材を増やせば増やすほど、写真は下品になっていく。機材のことを考えるのに忙しく、写真のことを考える時間はまったくなくなる。

これは深刻な問題である。今日、ほとんどのアマチュア写真家は、新しいカメラのことや設定方法のことを考えることと、写真の撮り方を考えることとは全く別物なのだということに気づいてさえいないように見える。

私は、写真について語っている人をほとんど見たことがない。かわりに、皆はカメラについて語っている。フォトショッププラグインについて、HDRモードのアルゴリズムについて、語っている。しかし、シャッターボタンをクリックするとき、レンズの前にあるもの、それこそが一番重要なのだ、ということを忘れかけている。

機材について考えれば考えるほど、写真について考えなくなる。

私は持ち歩くカメラを減らせば減らすほど、良い写真が撮れた。

レンズの本数を減らせば減らすほど、良い結果を持ち帰った。

余計に思念に引きづられなくなればなるほどに、素晴らしい写真を引き連れて旅を終えることができた。
 

いったい、なぜか?


男は、一度に一つのことをしか考えることができない生き物である。我々男性は、女性と比べて、たった一つのことにより深く、突き詰めて考えることができる生物である。コンピューター、自動車、微積分、原子力兵器、宇宙ロケット、これらが発明できた理由がそれである。しかし同時に、女性とは異なり、一度に複数のことを考える能力が欠如している。ビールを飲みながらゲームをすることはできるかもしれない。しかしそんなときでも、意識にあるのはどちらか一方だけなのである。

アイザック・ニュートン微積分を発明した。朝から晩まで24時間、微積分のことを考えていた。深く突き詰めた思考とは、そういうもののことだ。

一方、写真ということになると、もしも我々が複数のレンズを持ち歩くとき、また複数のカメラを持ち歩くとき、そして何種類ものフィルムを持ち歩く場合、常に余計なことを考え続けなければならない。
「レンズを換えようか?」
「ISOはいくつが良い?」
「ちょっと車に戻ってデカレンズ持ってこよう」
 
さらに悪いことに、複雑な写真機というものは、アマチュア写真家に対して、永遠にクズ写真を撮り続けさせる。本当にどうでもいい、余計な情報、懸念、気がかりを与え続けることによって。
「RAWで撮ったほうがいいかな?」
「AdobeRGBを試そう」
「三脚を使って30分に500枚を撮ろう、そしてHDRで完璧にパンフォーカスの写真をあとでつくろう」
 
こういった余計な思惑に気を散らされ続けるために、いつまでたっても自分が「なにを撮っているのか」に気づくことがない。三脚に取り付けたままのカメラで30分間に500枚のシャッターを切り、つなぎあわせるかわりに、30秒間、良いアングル、良い構図、良いロケーションを探す努力こそが必要なのに。

シャッターを切ること、これはもっとも簡単な工程である。被写体を見出すこと、これがもっとも困難な工程なのである。

適切な設定でシャッターを切ることに集中力を奪われてしまい、被写体を見るパワーは残されていないのである。

もしも良い被写体を見つける努力を怠るようでは、どんなに素晴らしい設定でシャッターを切っても、すべては無駄なのである。

これは優れた写真家がアイフォーンで素晴らしい写真を撮ることからもよく分かる。いかにして撮るかではない、いかによく見ているか、そこが違うのである。

我々の注意力・思考力には限界がある。どのカメラで、どのレンズで、どの設定値で、後処理はどうする、そういったことに苦心をしても、結果には全く現れないのである。
写真は、被写体、構図、しぐさ、照明、視点、インパクト、パースペクティブ、バランス、色、重さ、線、瞬間、空間、質感、そして他の多くのものから構成されている。

あなたは写真を撮るときに、カメラのことを考えている。レンズのことを考えている。設定値のことを考えている。それとも、レンズの向こうにある出来事、物事のことを考えているだろうか?

私もまたそうした一人であった。機材選定、設定値変更に忙しすぎて、いったいなにを撮っているのかを考える暇など全くなかった。

唯一必要なのはレンズの向こうの被写体であるのに、すべての注意はカメラ、レンズ、設定値に埋め尽くされていたのだ。

シンプルさが決定的に大事なのは、このためである。

たくさん持っていればいるほど、気は散ってしまう。

ここ数年、私は、持ち出すレンズの数を減らすようにした。そして写真が上達した。最悪の場合でも持ち出すレンズは3本までだ。21mmと90mm、そして明るい標準レンズか、もしくはキヤノンのPOWER SHOT(夜のために)。そうすることで、良い写真が撮れるようになった。銀塩一眼レフ、デジタル一眼レフ、そして複数のズームレンズを持ち出していた頃とは雲泥の差である。
 

レンズ沼


私は通常、レンズは1本しか持ち出さない。集中できるし、迷いがなくなる。FXか、フィルムのときにはNIKON AF-S 50mm F1.4。DXならばAF-S 35mm F1.8。そして、自分で動いて構図をつくるのだ。

常に写真のことを考えている。機材のことではない。

1997年、3週間ほどフランスで過ごした。単焦点レンズ1本だけを持って。サント・シャペル大聖堂の中で撮っているときですら、別のレンズが必要だとは全く感じずに済んだ。その写真が上である。素晴らしい出来とはいえないかもしれない。しかし、山のようにレンズを持ち歩いていた頃に比べたらはるかにマシである。

他の選択肢がないので、おのずとフレームを切り取る目ができた。気の散ることがないので、この一つのアングルをすぐに決めることができた。よく見ることができるので、良い写真を撮ることができた。

同じ1本でも、ズームレンズではこううまくはいかない。ズームレンズでは、自分が最適な構図を求めて歩き回り、自分の目で被写体を見るのではなく、ただ単にズームリングをまわして構図を求めるハメになる。「自分の目」で見ていないから、自分の感性の目で見ていないから、ダメなのである。

もしもどうしても複数のレンズを持ち出すのならば、決して迷うことのない全く異なるタイプの2本のレンズを持ち出すことだ。21mmと28mmを持ち出してはダメである。片方にすべきだ。

私は個人的に、どうしても複数のレンズを持ち出すのならば、21mmと90mmを選ぶ。そして50mmは置いていく。こうすれば、どっちのレンズがいいか、グダグダと悩むことはない。どちらか一方のレンズをつけて、一歩前に出るなり、一歩下がるなりして、それで撮る。この数のレンズであれば、わざわざファインダーを覗く必要もない。頭の中に、焦点距離に合わせたフレームができあがっているはずだから。

もしもさらにレンズを持っていく、というのならば、そのレンズは車かホテルに置いていくべきだ。(家に置いておけばもっと良いし、そもそも買わなければさらに良い)。レンズを迷う時間を、被写体を見ることに使うことができる。

理想的には、レンズは1本である。景色をよりハッキリと見ることができるようになる。そして、どんな写真をどんなレンズでも撮ることができるということを、学ぶことができる。

私は14mmレンズだけで1日撮りまわることができるし、135mmレンズだけでも問題ない。関係ないのだ。1本のレンズだけを使えば、写真は上達するのである。

初心者がよくはまってしまいなんにも撮れなくなる誤解というものがある。それは、すべての焦点距離のレンズを持たないとダメだ、というものだ。

このような誤解を広めているのは、あなたに新しいレンズを売りつけたい連中か、すでに買ってしまった自分を正当化したい初心者たちだけである。

機材を増やしても写真は上達しない。

私の友人のジャーナリスト、Karl Groblは、プロの写真家として、たった2本のレンズしか持たずに何ヶ月も国を離れて仕事をしている。CANON 16-35mm F2.8 L IIと、70-200mm F2.8 L ISだ。

最悪のパターンは、3本のズームを持つことである。14-24mm、24-70mm、70-200mm、すべての距離が埋まった!である。

あなたに必要なのは、たった1本のレンズであるはずだ。50mmとか。もしも2本持ちたいのならば、28mmと85mmを組み合わせるべきである。どうしても3本のレンズが必要だというならば(そんな人は実際にはいないのだが)、21-35-85、または、28-50-105が良いだろう。1歩前に出ること。1歩後ろに下がることができれば良い。そして、機材をシンプルにすれば、良い写真が撮れるようになるだろう。
 

カメラ沼


そもそも、カメラには様々な付属品がある。

かつて、露出計は本体と分かれていた。手動で読み取ってカメラに伝える必要があった。また手動でピントを合わせる必要があった。タフな時代であった。

最初の100年間、カメラは複雑化していったが、こうした機能をカメラ本体に取り込むためのものだった。1960年代には、露出計はカメラに内蔵され、ピントはファインダー内の距離計を使うなり、一眼レフのミラー反射像を見ながら合わせることができるようになった。

カメラは複雑化したが、この進化は必要なものであり、スナップ写真を撮るのが簡単になるものだった。

1970年代になると、露出決定は自動化するようになった。この進化は偉大であり、我々は本当に自由に撮ることができるようになった。

1980年代、オートフォーカスが登場した。素晴らしい! 完璧である。完璧な自由。もう構図を決めて、撮るだけだ。最高だ。

1980〜1990年代は、カメラ発達のピークの時代であった。CANON AE-1 Programや、EOS 620、NIKON F4といったカメラは、必要なことをすべてやってくれた。我々はただ写真に集中すれば良いようになった。カメラのやることなど気にする必要がなくなったのだ。

1990年代半ばから、各メーカーは、我々に新しいカメラが欲しいと思わせるための追加機能を失ってしまった。なにも追加すべきものがなくなってしまった。日本のカメラメーカーは代わりに、カスタムファンクションなる新機能を発明した。カメラ凋落のはじまりである。

この20年間、ほとんどのカメラは、無意味なゴミ機能を追加し続けているだけである。目的は売り上げを立てるためであり、良い写真を撮るためではない。悲しいことに、この傾向は今なお続いている。新しい機能に気が散って、被写体を見ることができなくなっている。

思い出すのは1990年代の後半、友人と写真を撮りに出かけていたときのことだ。友人が言った。
「A2Eでセルフタイマーかけるにはどうやるんだっけ?」
明らかに、次に撮りたい写真のことを考えることができなくなった瞬間である。そして次の写真を撮ることすらできなくなった瞬間である。

今日のデジタルになって、私を含め、誰も、写真の撮り方を完全に理解できる人はいなくなった。もちろん撮影を中断して、30分間格闘すれば、セットアップをすることはできる。それで撮ることはできる。だが、しかしシーンが変わると、もうダメである。また30分間撮影を中断し、10個のメニューツリーの中を全部確認して、設定変更すべき項目を探し回らなければならないのだ。

機能を1つ忘れると、もうシャッターを切ることができない。今日、ある設定項目が1つ間違っているためにうまく撮れない、と嘆く人をよく見かける。これは私にもよくあることだ。人々はカメラの奴隷になってしまった。こんなバカげたことは即刻やめるべきである。
 

かつて、デッカい3つのリングしかカメラには設定項目がなかった。シャッター、絞り、フォーカスである。1970年代から、これらのリングをどちらに回せば良いか指示してくれるようになった。そして1980年代からこれらは自動化した。完了である。これであとは写真を撮るだけのはずだった。

では今日なぜ、すべてが自動化されたカメラにおいて、1,645もの設定メニュー、カスタムファンクションが必要なのだろうか? たった3つの設定で写真は撮れるはずなのに?

3つの項目を自動化したあとで、なぜそれらを1,645のマニュアルメニュー項目に細分化して、また1から設定しなければいけなくなったのだろうか?

かつては、設定を間違っていてもシャッターを切ることはできた。今日、それすらもできなくなってしまった。カメラの求める設定に合わせないことには。

写真に集中し、より良い写真を撮るために最高の方法は、機材の数をなるべく減らし、もっとも単純なカメラを使うことである。カメラの機能を完璧に把握し、本能的に、とくに意識を中断することなく、すべての設定を完了できることである。

イカの取扱説明書にはこう書いてある。この説明書をよく読み、学習し、目を瞑ったままでもすべての操作をできるようにしてください、と。これは1952年、LEICA IIIfの説明書の記載だ。それから40年間で、カメラは簡単になったはずではなかったのか?

カメラの求める設定に時間を費やし、ファームウェアのアップデートに追われていて、いったいどうやって写真に集中できるというのだろう?

高性能、高画質、優れた色の再現性、ランニングコストの安さ、それらを犠牲にしてでも、私がフィルムカメラに戻っていったのは、これが原因なのである。

金持ちの連中がライカを使うのは、メカ性能が良くて、素晴らしいレンズが揃っているからでもある。しかしながら、シリアスな写真家たちがライカを使うのは、それとは異なる理由による。ライカがシンプルだからである。必要な機能しかない。常にシャッターが切れる。シーンが変わっても引き続き写真に集中できる。そして、ライカ以外には今日、その機能のすべてを理解できるような、シンプルなカメラは全く発売されていないのである。

私の知っているプロフェッショナルの写真家がライカを使っているのは、ライカがシンプルで、壊れにくく、小さくて軽いからである。彼らが、よりライカを好むのは、Olympus XAよりシャープで高画質だから、ではない。ライカがシンプルだからである。

同様に軽量な、NIKON FEもシンプルである。もっとシンプルかもしれない。レンズ交換のできないOlympus 35RCならばさらに良い。

よろしい、シリアスな写真家にとって、NIKON FMがライカ並みに良い。写真に専念できる。これがシンプリシティのすべてだ。
 

シンプルさで言えば、アイフォーンや写ルンですが最強である。

交換できるレンズはない。さらに良いことに、なんにも設定できない。どう考えても写真に集中せざるをえない。なにをどう撮るか、のほかに考えることはなにもない。

カメラは、その存在を忘れるほどにシンプルでなければならない。ただ被写体を見つめること、決定的な瞬間を撮ること。

トップアスリートに聞いて見るが良い。ダンサー、ミュージシャン、ほかのどんなパフォーマーでも良い。日々のトレーニング、学習を欠かさない一方で、いざ事に臨むときには、テクニカルなことなど全く考えない。ただやるだけである。他のことは一切考えない。自我を忘れ、ただ、行うのみである。

彼らを偶像化し、分析し、批評する人はいる。しかしこれらの妙技は、その瞬間瞬間の思考やテクニックによるものではない。いわば洪水である。洪水に身を任せ、ことをなすのだ。だからこそ、妙技なのだ。

私がスナップに出かけるとき、テクニックのことは考えない。このサイトでもテクニックに言及し続けるつもりだが、それをあなたは吸収し、自分のものにして、いざ撮る瞬間にはわざわざ考える必要がなくなっていることを期待している。黄色い壁を見たら、なにも意識せずに、本能的に、手持ちのNIKON FEなりLEICAシャッタースピードダイヤルを半段下げ、絞りを2/3段上げている。フレームの角をどこに合わせるかを見ていて、テクニックを意識している暇はない。

練習、学習の時間と、撮る時間は別物なのである。

ミュージシャンは演奏するときに楽器に置いた指を見たりはしない。目を瞑れば、さらに良い演奏ができる。レイ・チャールズは盲目だった。それでもキーボードで素晴らしい演奏をし、12のグラミー賞を受賞した。キーボードの仕組みにもっと詳しい人はいるかもしれないが、彼らはグラミー賞を受賞していないのである。

写真も同じである。撮るときには自由でなければならない。そして日々学習していなければならない。被写体に集中しなければならない。異なる構図を試し、違う角度からも見て、写真のことを考えなければならない。カスタムファンクションメニューの設定値のことを考えていてはダメなのである。

私はこれまでに、何百、何千の写真家に、プロアマ含め会ってきたが、ここに秘密の鍵がある。これらの人々の中で、次の二つのこと双方にあてはまった人は2人しかいない。
1.画素とカメラプロファイルの詳細、その裏の仕組みについてよく知っている
2.素晴らしい作品をコンスタントに発表している

本当の話である。何時間もフォトショップで編集する人は決して良い写真を生み出さない。一方で、素晴らしい写真をコンスタントに撮っている人はカメラの裏の仕組みについてはほとんど何も知らない。

真の写真家は、写真に関心があってカメラに関心がない。双方に詳しい人間は2人しか見たことがない。これは侮辱でもなんでもなくて、写真に打ち込んでいる人間は、レンズコーティングのことを全く気にしない。

Ansel Adamsはこの中に入っていない。彼とは仕事をしたことがないから。だが彼と会うことになれば、彼は3人目ということになるだろう。彼はいつも科学の知識を作品に利用はしているものの、それはたまたまであり、彼の作品は彼の用いるツールによるものではなく、ビジョンによるものなのだ、と主張している。

私はあなたのことはよく知らない。だがどちらかといえば、私はあなたより写真の撮り方を知っているほうだと思う。カメラの仕組みを知っているというよりは。

カメラの様々な設定に迷わされずに撮り続けるためには、一つのカメラ、一つのレンズに固執するのが良い。カメラは、あなたの想像力の拡張機にとどまらず、あなたの身体の一部となり、視覚の一部となる。決して別々の道具ではないのだ。

あなたがカメラのことを考えているとき、あなたは写真のことを考えていない。
あなたが写真のことを考えていないとき、写真は最低の出来になる。
シンプルなカメラはあなたにカメラのことでなく、写真のことを考えさせる。
カメラがあなたに奉仕すべきである。あなたがカメラの奴隷、写畜になってはいけない。
カメラはあなたの感性の外側にあり、撮ろうとする写真とは無関係でなければならない。あなたの想像するイメージは被写体から沸いて出てこなくてはならない。そのイメージにカメラが影響を及ぼすようならば、それはやめなければいけない。

あなたの撮影からカメラを遠ざけるには、シンプルなカメラを使うしかない。
 

提案

私がこれまでに撮ってきた写真の中で良い出来だと思うものはすべて、カメラ1台、レンズ1本で撮影したときのものだ。こうすることで私は写真に集中できた。カメラにではなく。

慣れない機械を使うべきでない。新しいカメラのことばかり考えて、なにを撮っているのかを忘れてしまってはいけない。
シンプルなカメラ、1本の単焦点ではじめるべきだ。2本ではなく、1本だ。
私の言う意味が分からないならば、写ルンですを使うべき。デジタルスキャンするのは簡単である。
ヒント:店員やテレビ・雑誌・ネットの広告があなたに、なにかよく分からない新しい機能を説明してきたとしたら、その意味があなたに意味不明であれば、それは無視すべきである。
見ることを学び、撮ることを学ぶべきである。
素晴らしい作品を撮ることができるようになったら、そのときに初めて、新しいカメラのことを考えれば良い。
しかし、もしも素晴らしい偉大な写真を撮る方法を学んだら、おそらく、それ以上新しいカメラやレンズが必要だとは考えなくなるだろう。
私がそのミスに陥ったら、誰か私に注意して欲しい。
 
今、私は写真のワークショップで教えている。そして私を含め参加者の誰1人として、カメラの持つ全機能の1%も理解していない。なぜなら、残りの99%は、撮影に際して気を散らすだけのゴミだからである。ニコ爺の私ですら、NIKON D300でブラケット撮影する方法をパッと思い出せない。カメラは今日、本当にバカげたことになってしまった。
 
Keep it simple.
Merry Christmas.
Ken.