ぽめら

  • 「君は要するに判っていないんだ、ドラッカー」彼はかっとなって言い返した。「いや、唯の一度だって判ったためしがないんだ。僕は頭が良くない、それは判っている。僕は君やアルネやベッカーよりも長く勤めている。君たち三人は幹部編集者になった。それなのに僕は駆出しの頃と相変らず市役所回りだ──僕は文章がうまくない、それも判っている。だが、誰も僕を家に招ぼうとしない──エリーゼのおやじさん、あの歯医者でさえそうだ。もっとも彼女は僕には過ぎた娘だと思っている。いいかね、ドラッカー、僕は権力が欲しいんだ、金が欲しいんだ、ひとかどの人間になりたいんだ。だからこそ僕はナチスに入党したんだ──四、五年前ナチスが勢力を伸ばし始めた時に。おかげで今の僕は、若い番号の党員証を持っている──僕はひとかどの人間になれるんだ! 頭のいい、育ちのいい、コネのある連中は選り好みをしすぎるし、融通がきかないし、汚い仕事をやろうとしない。今こそ僕という男が認められるチャンスなんだ。覚えておくがいい、今にきっと僕の評判を耳にするからな」

(中略)
私はドアに差金を掛けたーーこのアパートでの三年間の生活ではじめてのことだった。その時突然、未来の光景が、血なまぐさい、身の毛もよだつような、低劣な獣じみたものがこの世に襲いかかる光景がありありと見えてきた。
『傍観者の事時代』『怪物と子羊』P.F.ドラッカー

  • 彼は休暇をとったことがなかった。──「事務所ほどくつろげるところはないからね」が口癖だった。事実、私がどんなに早く出勤しても、彼は机に向かい、電話で話中だった。
  • 「君は、今後五年間、毎年十%の比率でこの会社の売上高と利益が共に伸びると見ている。この予想はもちろん経営者から仕入れた、そうだね?」 私は頷いた。「君もよく憶えておいた方がいい。売上高と利益の両方を同時に何年間も伸ばすことができるなんて約束する経営者は嘘つきか馬鹿にきまっているーーまあ、大抵はその両方だがね」
  • 傾きかけた会社があった。私がその株式の過半数を取得し、再建する計画を入念に立てたところ、フリードバーグはこう言った。「こりゃ面白い。早速ルイスに見せてみようじゃないか」「でも、フリードバーグさん」と私は、反論した。「ルイスは帳簿係の中でも一番未熟ですし、あなたご自身つい二、三日前に、あいつは頭が弱いって仰しゃったばかりじゃありませんか」「その通り」と、フリードバーグは答えた。「だから、彼に君の計画が呑み込めたら、実施することにしよう。呑み込めなかったら、君の計画は複雑すぎるってことになる。どんな計画でも、簡明第一なんだよ。仕事をやるのは結局、頭の弱いやつだからね」
  • 「どうして怪しいと判ったんですか?」と訊ねる私たちに、フリードバーグはこう答えたものだ。「最初っからずっと目についていたのに君たち、全然気づかんのだからなあ。いいかね、あの男はどんな質問にもちゃんと答えを用意していたーー正直者ははそんなことをせんし、第一、する必要もないよ」
  • 「ロバートとリチャードはいずれ君がひとかどの銀行業者になれると見ている」と、彼は言った。「だが、君は、大概本を読んでいる。なるほど本を読めば、エコノミストにはなれるかもしれん。しかし、銀行業者は人を相手にせにゃならん。まず、人を観察するんだ、人を! いずれ、観察に値する人物にきっと会わせてやるからな」
  • 「小売販売には二つの原則しかない」ヘンリーおじさんは、色うつりのよくない日傘についての長談義を締めくくって言った。「"二セントでも値引きすれば必ず、よその店からお客を引っ張れる"──これが第一の原則。それから、"陳列棚に並べなければ商品は売れっこない"──これが第二の原則。あとは、ひたすら働くのみだよ」
  • 仮にお客が合理的に行動していなかったら、外に出て店を眺めてみることだ。お客の立場になって商品を眺めてみることだ。そうすればお客の行動がいたって合理的だってことがちゃんと判る──ただお客の現実が、商人の現実と違うだけなんだ」
  • 論理の検証を経ていない経験は「修辞」ではなく雑談であり、経験の検証を経ていない論理は「論理」ではなく不条理である
  • ドラッカーさん、一人の女性が三人以上子供を産むのは健康に良くないと思うんです。ですから私は、妻が子供を三人産んだら離婚手続きをとって解放してやり、別の女性とあらためて結婚することにしているんです。でも、もちろん、愛情が冷めたわけではありませんから、私たちがお互いに最も親しい友人であることに変りがありません。離婚した妻も二人の間の子供も引続き、私や新しい妻と同じ屋根の下で暮らします。ただ、寝起きするところだけはそれぞれ分けています。別の塔や別の翼にですね」
  • ドラッカーさん、あなたもいずれ年齢をとれば判りますけど、人は誰でも効き目のある方法を大切にするものです。年の功で、私はどうしたら良い夫になれるかを知っています。で、その方法を私は忠実に守っているんですーーもちろん、効果は万点です」
  • サミュエル・ジョンソン博士はかつて「金儲けに従事している時くらい、人が無心になることはない」と言った。この言葉は、現代人には奇異に響く。が、何と言っても「御大」サミュエル・ジョンソン博士の、人間行動についての言である──しかも、旧式の宗教道徳家として、金儲けを胡散くさいものと見てもおかしくはないのに、金儲けを是認しているのである。博士はここで、金儲けをしている人は、良いことをしているのだとは言っていない。一番無害だ、と言っているのだ。つまり、金儲けに従事している人は、権力を求めないし、他人を支配したりのたうち回らせたりしようとはしないし、財物を蓄えようともしない。シンボルに満足し、現実は成行きに任せている、と言っているのだ。けれども、ジョンソン博士がこのことを言った時代には、各種シンボルの──金というシンボルであれ「メディア」というシンボルであれ、シンボルの──人間は、一握りの少数派にすぎなかった。大多数は──パン屋や靴屋、地主や裁判官、貴族や農場労働者は──、物をつくったり、権力を求めて策動したり、他人を支配したり、他人に支配されたりしていた。彼らは古典経済学者同様、金に現実そのものではなく「現実の仮面」を見ていたのだ。フリードバーグやパールブームが無心に金儲けに従事していた頃はまだ、二人の属するグループは一握りの少数派にすぎなかった。だが、シンボルとイメージを究極的な現実と見、人間と物を影として扱う超名目論が大多数の人間の認識となった現在、はたしてこの超名目論は、依然として「無心」かつ無害であるとち言えるだろうか?

『傍観者の事時代』『アーネスト・フリードバーグの世界』P.F.ドラッカー