GM

私たちの次の世代は、私たちがこれまでに目指してきたことを自明のこととして受け入れています。

「GMの経営陣には」とブラウンは続けた。「アメリカの産業界の平均に比べて、大学出が多いんです──少なくとも年配者には。スローンはMITの工学士ですし、私はバージニア・ポリテクニックで学位を取りました。社長のウィルソンはカーネギー出身です。でも当社では、下積みから偉くなった者が多いことを一大特色として打ち出しているんですよ。現に空軍の生産計画を指揮している前社長のヌードスンがいい例です。キャデラック部門のドレイスタットも、もともとドイツからやってきたメルセデス・レーシング・チームの補修係でした。ビュイックのカーチスとシボレーのコイルも小学校を五、六年でて中退して事務員として働き始めました。博士号なんか持っているとかえって肩身の狭い思いをしなければなりません。ブラッドレーは博士号を持っていても職場で役立つ人間であることを身を以て実証しましたが、それでも私たちとしてはできれば、彼が博士号保持者であることを内聞にしておきたいんです」 三十五年後の今日、GMはもちろん、管理職には大卒しか採用しない。それどころか、高い学位の持主が多いことを強調する。しかし一九四〇年当時は、博士号のような資格は、研究職部門の化学者でない限り隠しておくべきものだったのである。

キャデラックの職長は、ドレイスタットの許可がない限り、新規採用を断わってはならない、と命じられていた。そのため、次から次へと職長たちがドレイスタットのところへやって来ては、「この男はどうもわれわれの生産標準に達していないようです」と申し立てた。それに対してドレイスタットは、よくこう答えた。「その男の工具の扱い方はどうだね。また同僚や職長である君に対する接し方はどうなんだ?」「それは問題ないんですが、仕事ができないんです」と、なお訴える職長に対して、ドレイスタットはさらにこう言ったものだった。「九十日間だけ人を雇うんじゃない。三十年間雇うんだ。自尊心があり、工具や同僚を大切にする人間だったら、必ず標準の仕事をするまでに成長するものだ」
反面、ドレイスタットは、組合を相手に渡り合い、古手の従業員でもいい加減な者や、同僚を軽蔑したり非礼な態度を取る者は、どんどん首にしていった。そういう場合には、戦闘的な職場代表でさえ、ドレイスタットに大して反論もせずに折れた。

彼は、一番有能で将来性のある若手の部下を人事部に送り込んだ。こんなことをしていたゼネラル・マネジャーは、GMではドレイスタット一人だった。当時、「人事部」といえば、それ以下に落ちようがない、どん底の職場、というのが定評だった。「ジム・ローチはいまにGMの最高トップになる優秀な男だ。ただし、そうなれば、男女社員の扱い方を学ばなければいけない。それには本を読んでいるだけでは駄目だ」

当時デトロイトで見つけられる労働力といえば、せいぜい年をくって使いものにならなくなった黒人の売春婦ぐらいであった。だがあきれたことに、ニック・ドレイスタットは、それらの黒人女性を二千人も雇い入れたのである。しかも「売春宿のおかみも雇え──女の扱い方を知っているから」と指令した。女たちは、ほとんどが字も読めず、職務に関しては長い時間をかけた指導が必要であった。「でも読み方を教えている暇はないし、またそれをなんとか習おうとする者もいませんでした」と、ドレイスタットは語った。そこでドレイスタットは自ら仕事台に出向いて、自分もいくつかの爆撃用照準器をつくってみた。そして、そのつくり方が判ると、その工程をムービーカメラでフィルムにおさめた。プロジェクターに別々にフィルムの駒をかけ、動く図形によって赤い光がこれまでに終えた作業工程を、緑の光はこれから取りかかるべき作業を、また黄色い光は次の作業工程に入る前に確認しなければならないことを、それぞれ示すように工夫した。これと同じやり方が現在では、多くの組立ライン工程の標準的な教え方になっているが、発明したのはドレイスタットであった。数週間もすると、これらの、未熟で、字も読めない、年をくって疲れ果てた女たちが、熟練機械工たちよりもむしろいい仕事をし、生産量も多くあげるようになった。GM社内やデトロイトでは、キャデラックの「赤線地帯」と皮肉られ、あれやこれや口汚く非難された。が、ドレイスタットは、「彼女たちだって、私や君らの仕事仲間だ。仕事ぶりは優秀だし、自分の仕事に誇りを持っている。過去はどうであれ、われわれの仲間と同じように尊敬に値する人たちだ」と言って、そうした非難をぴしゃりと封じてしまった。組合は「ほかに職が見つかったら、彼女らをすぐに辞めさせるって約束して貰いたい」と、ドレイスタットに迫った。当時、自動車労組には、とくに地方支部の指導部にはファンダメンダリストの南部白人男性が多く、彼らは白人の女性さえ仕事の仲間にすることを嫌がっていた。ましてや、二グロの売春婦なんて、というわけだった。ドレイスタットも、戦争が終われば彼女たちの大半を解雇せざるを得なくなることを承知していた。復員兵たちがもう一度以前の職に就きたがるからだ。だが彼は「黒ん坊好き」とか「女郎狂い」などと嘲られながらも、何とか組合側の同意を取りつけて、彼女たちのほんの一部でも職場に居残れるようにしようとした。彼は組合側にこう訴えた。「彼女たちにすれば、貧しく不幸な人生ではじめて、まともな給料を貰い、まともな仕事に就け、ひとかどの権利を持つようになったのだ。そしてはじめて、人間としての威信と自尊心を持つことができたのだ。もう二度と、拒絶や蔑みを受けないように、彼女たちを守ってやるのが私たちの義務だ」 戦争が終わって、いよいよ彼女たちを解雇しなければならなくなった。多くの者が自殺を試み、少なからぬ者が死んだ。ドレイスタットはオフィスで頭を抱え、ほとんど男泣きせんばかりであった──「神よ、お赦し下さい。私は、この可哀相な女たちの期待に背いてしまったのです」

ウィルソンがとくに関心を抱いていたのは、従業員の職務と工場共同体の問題であった。「アメリカでは、筋肉労働者の生産性を引き上げ、賃金を高くして彼らを中産階級にすることに成功したとあなたは言われるが、今度はそういう筋肉労働者を、生産の担い手としてだけではなく、市民としても、有能な人材に育て上げなければならない。その意味を考えようではないですか。」と、ウィルソンは言うのだった。
(中略)
スタッフたちと協議した結果、「私の職務、私はなぜそれが好きか」というテーマの論文コンテストを開くことに決め、ささやかなものだがたくさんの賞品をつけ、審査員を外部から呼んできた(私もその審査員の一人にさせられ、戦時労働局の局長を務めていたことのあるジョージ・テーラーも加わった)。このコンテストの結果やはり、ウィルソンや私の考えが全面的に正しいことが証明された。のちに産業心理学で究明されるようになった問題──たとえばミシガン大学のレンシス・リカートの説、あるいはフレデリック・ハーツバーグの「人間はなぜ労働するか」といった分析などの結果がすべて、この論文コンテストを通じて証明された。このコンテストを通じて、労働に対する外面的な報酬、たとえば賃金とか昇進は、のちにハーツバーグが「衛生要因」と呼ぶようになったものであることが判った。賃金が少なかったり、なかなか昇進させて貰えなくて不満があると、労働者は仕事への意欲や励みを失うものである。だからといって、そういう面で満足させることが、とくに重要だというわけではなく、それが仕事の励みになるということも少ないのである。それよりも、何か事をなし遂げた、という気持、何かに貢献しているという自覚、責任感など、そういったものこそ、仕事への意欲と励みになるのだ。

「人事に関する決定は、実に重要なものである。誰もがもっとすぐれた人材がいるはずだと思っているが、会社としてせいぜいできることは、適所に人材を配置することだけだ。でも、そうすればきっと業績があがるものだ」というのがスローンの結論だった。

委員会でいったん人選が決まったかに見えると、スローンが突然口を挟み、「あなた方の選んだミスター・スミスはなかなかいい成績だが、さて、どう賢明に危機を乗り越えていけるか、その辺のところを説明して貰おうか」と水をさす。するともう、スミスを推すものはいなくなった。スローンはまた、こうも言った。「ミスター・ショージはできない男だけれど、どうやってあそこまでやれたのかね」 そして、その説明を聞いた後、スローンは、「そう、彼は決して聡明な男ではなく、鈍重で、ぱっとしない奴だが、いつもなんとか業績をあげてきたではないか」と反論してみせるのだった。事実、ジョージは、この決定に従って大きな事業部の総支配人になり、困難な時に大いに腕を振るった。

スローンはまた、非常に人に親切だった。ある会議の席で、附属品事業部の新任の総支配人が、しくじりをやってしまった。鋳物工場の経営をやったりして出世した男だが、アルバート・ブラッドレーが突然、その男がまるっきり知らない経済と財政の見通しについて根掘り葉掘り訊き始めた。それで彼は、すっかり慌ててしまい、「存じません」と一言いえばすむものを、当てずっぽうにいい加減な答えをし、その場をしのごうとした。ブラッドレーは、そういうことを絶対赦さないし、またあとあとまで決して忘れない男なので、その男にとってそれはまさに自殺行為だった。そこへスローンが助け舟を出し、彼の味方をして、自分もさらに輪をかけていい加減な当て推量を並べ立てたのである。会議が終わって外へ出た時、私はスローンに、どうしてあの若い男にあんなに親切にしたのか訊いてみると、スローンは驚いたふりをして、「稼ぎ手を大切にするのはGMの会長としての責任ですよ。それにあの男には、二十年間、GMは多額な投資をしてきたからね」と答えたものである。

スローンは、度外れなほど他人思いなところがあった。スローンは『GMとともに』を一九四七年から五二年にかけて書いた。チャーリー・ウィルソンがGMを辞めてアイゼンハワー内閣に入った頃、すなわち一九五三年一月までにはその本をほぼ書き終えていたという。本の中にGMの幹部が登場してくると、スローンは必ずその章を当人に見せ、事実を確認して貰うのだった。しかし、それでもなおスローンは、その本の中で余り好意的に取り上げなかった人物が亡くなるまでは、出版を見合わせることにした。その時スローンはすでに七十八歳。彼の最大の願いは、生きている間に本を出版することであった。しかし、かつてのGM時代の同僚の心を傷つけるようなことはしたくないと言って、出版をさらに十年も延ばしたほどである。「個人のことでも、当り障りがなく、愉快な話ならいいではないか」と、ダブルデーの編集者が原稿を公表させようとしたが、スローンは、「いや、それも駄目。まあ、私に寿命があったら、ということに賭けるよりほかないですな」と、いっこうに応じなかったそうだ。結局、彼は、本の中の登場人物の誰よりも長く生き、本が出版されてベストセラーになった一年後に、九十一歳で亡くなった。

企業に「公共的責任」を要求することは──しかも、三十年前、私自身が『会社という概念』の中で理想的に描いたよりはるかに強く、その責任を求めることは、結局、企業に対して権限を主張させることにもなるわけだ。つまり公共的責任の要求は、企業から権力を奪い取ることを狙ったものなのに、いみじくもスローンが三十年前に見通していたように、それによってむしろ逆に、企業やその他の「利益集団」にわれわれの方が支配されてしまうことになりかねないのである。

『傍観者の時代』『専門経営者アルフレッド・スローン』P.F.ドラッカー
 










米GM、連邦破産法適用を申請 - ロイター