デザイン的に読みにくいので、コピペした。
コミュニケーション能力に本当に欠けるひとの他人とのつきあい方 - はてなポイント3万を使い切るまで死なない日記
はてなダイアリーでブログを書きはじめて1ヶ月以上たったのだが、別に日記とかをつけているわけではないので、そろそろ書きたいこともなくなってきた今日この頃です。
44年間の人生(※1)で中身が詰められた引き出しは意外に少ないもんです。
もともとブログをはじめた理由となる読んでもらいたいエントリが本当はあるのですが、はてなが意外と楽しくて、予定以上にいろいろなエントリを書いていたら、完全に出すタイミングを失ってしまいました。増田にでも出そうか悩んでいます。
さて、ということで、なにか、普通のひとはあんまり書かないだろう暮らしの知恵的なものをエントリにしてみました。
テーマはコミュニケーション能力がないひとの上手な他人との付き合い方です。コミュニケーション能力が本当にないひと向けですのでリア充なひとは不要です。該当しないなあと思う人はここから先は読まなくていいです。(というか、すごい長文になってしまった)
ステップ0 自分を冷静に見つめ直してみる
ステップ1 プロキシー(代理人)を通して他人と付き合う
ステップ2 自分の価値を高める
ステップ3 真の友情をつかむ
順番に説明していきましょう。ステップ0 自分を冷静に見つめ直してみる
さて、はてな界隈にもコミュニケーション能力や社交性に欠ける困ったちゃんは山ほどいると思います。
他人と付き合うことが苦手な人間がどうやって他人と付き合っていけばいいか?
すでに命題自体が矛盾をはらんでいることにお気づきだと思います。
そう、出発点は、冷静に人間関係における自分の価値を認識することでなければなりません。
だいたいほとんどの他人はあなたとは付き合いたくないと思っているはずです。話も面白くないし、一緒にいてもノリが合わなくてつまんないし、自分までこいつの仲間だなんて思われたら仲間はずれにされるかもしれません。きっとあなたはそういう存在です。
だいじょうぶです。心配することはありません。こんなクソブログのゴミエントリなんかを読んでいるひとはみんなあなたの仲間です。ええ、絶対にあなたの仲間のほうが多いはずです。多分ですが。すくなくともあなたより惨めなひとは世界中を探せば3人はいるでしょう。
そう、冷静に自分の立場、他人にとっての自分の価値を、…嫌な現実ですが、しっかりと受け止めてください。
そうやって世界を見渡してみると、意外にも、世界は慈愛に溢れた素晴らしい世界であることを再発見します。
あなたとは本当は関わり合いたくない、目とかも合わせたくない、可能であれば同じ部屋の空気を吸いたくないと思っているはずの他人が、あなたのすぐそばに、ほんの少数ではありますが、いてくれているではないですか。
学校や会社でも家庭でもそして社会でも、あなたはけっしてゴミなんかじゃありません。人間として認められています。ゴミなら粗大ゴミの日に出されているはずです。
選挙権だって、あなたが20歳以上であればあたえられるはずです。
コンビニのレジの女の子だって、たまにはあなたにお釣りをわたすときに手がふれてしまうことを厭わない子だっているのに気づきませんか。まるで観音様のようではないですか。
はい、あなたは、いま、まわりのひとに自然な感謝の気持ちがめばえてきたはずです。
まとめ0: おめーはつまんねー奴なんだから、つきあってくれるだけでも、まわりのひとたちには感謝をしとけ
では、まわりのひとへの感謝の気持ちをわすれないうちにつぎのステップ1へいきましょう。
ステップ1 代理をたてて他人と付き合う
あなたはコミュニケーション能力も社交性もないんだから、苦手なことはやらないのが一番です。なので付き合う相手は、せめて少数精鋭でいきましょう。21世紀のカリフォルニアの思想家、Kentaro Ejima(※2)によると究極の少数精鋭はひとりだそうですので、あなたが付き合う相手も、ひとりいれば十分だと思います。というか、たくさんのひとと付き合えるひとは、そもそもこんな無駄なエントリを読む必要がありません。
そのひとりに社交性のある人間を選べば、その人を通じてあなたは残りの世界とつながればいいのでとても効率的です。
さて、ここでひとつだけ大きな問題が生じます。そもそも自治体にも回収してもらえないゴミみたいなあなたと社交性のあるような人間が付き合ってくれるでしょうか?ここは難しいところです。大変な難関ですが、残念ながら、ここだけはなんとしてでも、頑張ってクリアしなければいけない。
どうするか。
申し訳ない。このいちばん肝心なところに僕は具体的な答えを用意してあげることができない。ここはあなた自身で一生懸命にがんばって考えてもらうほかないところなのです。
ただ、間接的な助言であれば、すこしはしてあげることができる。
ひとつは対等な関係を望んではいけないということです。ぼくはここまであなたが付き合う相手について友達という言葉は使ってこなかった。虫けらみたいなあなたには人間の友達なんておこがましい。もっと非対称であり不平等な関係で満足すべきです。
もうひとつは相手にとって、やっぱり優しさだけでは足りなくて、あなたと付き合うメリットがどうしても必要だということです。自分が、世間一般に、もしくはせめて、相手にとってだけでも、なんらかのメリットを与える存在でなければ、どのみち付き合ってもらうことはできません。ここははっきりと理解できなければいけません。また、甘えたり期待したりするのは絶対に禁物なところです。
だから、絶対に、相手に依存してはいけません。いくらあなたみたいなゴミを人間として扱ってあげようという心優しい相手でもゴミによっかかられてしまうと、つい鼻をつまんだり、顔をそむけてしまったりします。それは生理現象だからしょうがない。悲しいことですが、けっして恨んではいけません。よっかかったあなたが悪い。
まとめ1:つきあう相手は少数でいいから、そのぶんがんばれ
ステップ2:相手にとって価値のある人間になる
ごくつぶしで役立たずのあなたが他人にとって価値のある存在になるということが本当に可能でしょうか?最新の物理学ではそれが理論的に可能であることが予言されています。空想物理学者Hiromu Arakawaの論文「Fullmetal alchemist」で発表された「等価交換の法則」(※3)によると、あなたはコミュニケーション能力を代償として失った代わりに”なにか”を得たはずです。
サヴァン症候群とか、アスペルガー症候群とかいうのをご存じでしょうか?
人間の脳で数学をやるときにつかう場所とか、料理のレシピを覚えておく場所とかは決まっておらず、ひとによって異なるようですが、言語をあつかう部位だけは、特定されており、また、かなりの大きさを占めます。人間の思考にとって言葉というのはいかに特別であり、中心的な位置を占めているかということでしょうが、また、人間のコミュニケーション能力と言語をあつかう能力とはかなり密接な関係にあるようです。
サヴァン症候群やアスペルガー症候群とは、すごく簡単に説明すると、この本来は言語をあつかうべき脳の巨大な回路を他のことにつかってしまったひとたちのことです。サヴァンやアスペルガーまでいかなくても、コミュニケーション能力が低いひとというのは、必ず、巨大な脳の回路が余っているはずです。絶対に、社交性のある人間よりも優れている能力がなにかあるはずです。
それがあなたがコミュニケーション能力を失ったかなりに得た能力が、錬金術やスタンド能力であれば、かなり、あなたが付き合うことにした数少ない相手にとって価値の高い人間になれる可能性は高いです。とはいえ、巨大な代償を払ったくせに、とても他人に評価されるとは思えないくだらない能力しか、あなたは得られなかった可能性もあります。
そういう場合でも大丈夫です。あなたのように人生のくじに外れた運のない人間にもきちんと残念賞が用意されています。
それは時間です。なにしろ人と付き合う必要がほとんどないのだから、ふつうのひとよりも圧倒的にヒマがあるはずです。ここをあなたの価値をあげるのにつかえなかったら、数少ないあなたの周りのひとにも相手にされなくなります。
まとめ2:あなたは人間として魅力ないんだから、なんかとりえをもつための努力ぐらいはしろ
ステップ3 そして真の友情をつかむ
まあ、真の友情をつかむためには真の友情というのはどういうものなのかを定義しなければいけません。真の友情というのは、まず、絶対なものでもなければ、永遠なものでもないということを理解しなければいけません。とても不安定ではかない一瞬で消える幻のようなものです。だからこそ尊い大切なものなのです。
でも、定義を変えたところで、「真の友情」というと、なんともおおげさすぎる表現ですので、呼び方も変えちゃいましょう。そうですねー。じゃあ、こういうのでどうでしょうか?
「ちょっと真の友情っぽい、なにか」と、ここでは呼ぶことにしましょう。
では、どうやって「ちょっと真の友情っぽい、なにか」を手につかむことができるのでしょうか?
そのためには、あなた自身の「価値」というのが本当に重要です。ここまでのステップで、あなたにはなんらかのとりえがきっとできている、とします。それをつかってまわりのひとと友情ゲームをはじめましょう。
友情ゲームというのは、ポーカーのようにお互いに、相手が降りるか、これぐらいの賭け金でいいと両方が合意するまで、お互いの友情の大きさを上げ続ける、というのが基本ルールです。
まあ、あなたは駆け引きは、どーせへたくそですから、ポーカーゲームは適当にやっていればよろしい。出し惜しみせずに、かといって相手が警戒しないくらいのちょっと多めの友情の大きさを賭け金として提示してあげればいいでしょう。
あなたにとっての勝負のポイントはそこではありません。友情ゲームというものは、現実のポーカーと違って負けても賭け金を払わずにばっくれてもいいというルールなのです。
なにかがあったとき、本当にあなた/相手が賭け金を払うかどうかというのが友情ゲームの本質です。
そしてあなたの目的は、自分が払わずに相手だけ払わすというような高等戦術ではなくて、お互いに賭け金を払い続けるというゲームそのものを成立させることです。
そして、ここを勘違いするひとが多いのですが、このゲームが成立するかどうかは、あなたの人格ではなくて、あなたの価値が決めるということを忘れてはいけません。あなたが賭け金を払わないのはもちろんあなたのせいですが、相手が賭け金を払わないのもあなたのせいです。
なぜなら、どちらもあなたの価値が足らないのが理由だからです。相手に裏切られるとき、相手のせいにして非難しがちですが、なぜあなたが裏切られたかというと、ルールを守ってまで付き合いを続けるに値しないと判断されたにすぎません。
あなただって同じです。
人間は自分にも嘘をつくし、自分の願望と自分の現実の姿を混同しがちですが、人間が約束を守るかどうかは、その人の能力に比例します。とるにたらない約束、簡単にできる約束は守ります。自分に痛みをともなう約束はできることなら守りたくないでしょう。自分を本当に犠牲にしないと守れない約束なら、理由をみつかれば、なんとか反故にしようとします。自分が相手に誠実になれるかどうかも、あなたの人格よりも、あなたの能力できまるおです。
相手もそうで、できない約束は守らないのはあたりまえ、守れるけど痛みをともなう約束のときは、あなたの価値をその痛みと天秤にかけるのです。相手の判断が間違っているならそいつの頭が悪いだけの話ですが、相手の判断が正しくて、そしてあなたの価値が低いのであれば、悪いのは価値のないあなたのほうだ。ゲームは負けです。
結局のところ、あなたの能力次第で、友情ごっこというゲームが成立するかどうかが決まるということになります。
自分が駄目駄目なときにまわりの友情を期待するなんて、解がないところで解を探すような真似は時間の無駄ですからやめましょう。そんなヒマがあったら自分を磨いて価値を高めることが大事です。
友情ごっこなんてゲームは遊びにすぎませんが、遊びだからこそ、真剣に努力してゲームやらないと面白くないです。あなたはもともと付き合う相手がすくないんだから、自分の痛みをともなう好意を、痛みを我慢しながら相手に与えるというプレイスタイルが比較的に向いています。
友達に金を貸してはいけない。友情が壊れるから、貸さないのが真の友情だ、というようなことをいうひとがいますが、そんなたわごとは真に受けてはいけません。それは友情が最初からなかったか、貸す金が惜しいだけの言い訳でしょう。
他人にお金を貸すというのは大変に難しい決断です。あげるつもりで貸せというのもよく聞きますが、それは本当にそのとおりです。どうせあげるつもりで貸すのであれば、「ちょっと真の友情っぽい、なにか」をゲットできる大チャンスですので、そのときの注意事項について話しましょう。
ひとつはお金の使途は具体的にはきいてはいけないということです。貸すんじゃなくてあげるものだから、聞く必要はありません。あと、返済方法についてもきいてもいけないし、まして約束させては絶対にいけません。お金を借りる人というのは、だれも貸してくれない状態で頼んでくることが多いです。そういうとき、話せば話すほど、無理なこと、実現できないことを約束してしまいます。そして借りた後、その自分の言葉に縛られて、二度とあなたの目の前から消えてしまいます。そのときは、心が弱っているでしょうから、自尊心を守るために、あなたを逆恨みする可能性すらあります。
本当に返せないひとほど、、自分でも返せないことをぼんやりと自覚していますから、「少しずつでも返す。とか一生かけて返す。もらったつもりはない」とかいう、本当のことをいっているんだと自分で信じられるギリギリの表現をしたがります。
そう思っているのは決して嘘ではありません。毎月返すといっているひとは、間違いなく最初の1回目は、ほぼ振り込んできます。ただし、だいたい、続いて2ヶ月までといったところでしょうか。
絶対に返すという偽りの言葉を信じるということは、友情ゲームという観点からは、一見、正しいように思えますが、必ず負けますので、そんな言葉は絶対に許してはいけません。なにも聞かず、黙って貸す。それが最善です。返ってくるかどうかは相手の力量と運次第です。相手の人格とかは二次的な問題です。返せないものは返せません。恨んではいけません。
人間はあなた自身もそうですが、いろいろな側面をもっています。自分と相手との関係性の中でどういう側面をお互いだしていくのかというゲームをやっています。お互いに、いい面を出し合えた瞬間が「ちょっと真の友情っぽい、なにか」です。でも、それすらも永遠のものではなくて、ほっとくと、すぐに消えてしまったりします。ずっと人生の長い間、維持できるとしたら、運も必要ですから、ちょっとした素敵な奇跡でしょう。
あなたはどうせ最低の人間だから、きっとまわりの人間のことは好きになれるし、尊敬もできるはずです。
ただ、だれでも、あなたに嫌な面をみせたりすることはあるでしょう。でも、あなたの心の中のもっとも嫌な自分よりは絶対にマシなはずです。
相手のためじゃなく自分の信じたい未来のために自分の友達は助けるのだと思います。
……すっかり長文になってしまいました。
なんか、ここに書いたことは、あたりまえのことばっかりで、つまんないなあ、と思った人も多いと思います。時間の無駄でした。すみません。
でも、まあ、コミュニケーション能力のない社交性のないひとにとっては、意外とわかんなかったりするものじゃないかなと思ったので、書きました。友情に飢えると逆に幻想とかもっちゃって存在しないものを探しちゃうのは無駄ですしね。
人間というのは悲しい生き物で、歳末助け合い運動とかで、小銭じゃなくて、お札を募金箱にいれたりするひとが、見るからにお金をもってなさそうなひとだったりします。きっと、本当に苦しかった過去や現在があって、そうせざるをえない衝動にかられたんだと思います。
人間がなにかを望むとき、もっともそれを必要としているひとが、むしろ他人に与えてしまうというのは皮肉なことです。
でも、本当にだれかが困ったときに、損得や理屈を無視して手をさしのべるひとはそういうひとなんだと思います。
それを頭が悪いと笑うべきなのか、憐れむべきなのか。
ひとついえるのは手をさしのべて問題が解決できるだけの”力”をもっているのであれば、そんな頭の悪い行動も、きっと本人は幸せなんだろうと思います。
力が欲しいか?
ぼくは欲しい。
(※1)出典、公式プロフィールより。
(※2)無理矢理、絡むのも3度目はいかがなものかと思ってtwitterにて本人から承諾いただきました。しょーもない小ネタですみません。多謝。
(※3)鋼の錬金術師を読むと等価交換の法則がどうみても成り立っていないように見える現象ばっかり起こりますが、人間の直感と正しい理論とが、必ずしも一致しないというのは、相対性理論、量子力学以降の物理学の特徴です。