ノートとえんぴつ、心理学の奴隷

19xx年にサトミは、と書きかけて我ながら唖然とするのはこう、2012年に催促されている件を忘れていてさらに催促されるなどした際にうるせえ俺はとっとと帰ってブログ書きてぇんだよとほっぽって本当に帰ってきてしまった・・・それも途中で淀橋に寄ってから・・・というわけでその道中においそれ自分がされたらどう思うよ、という想像からとも違う、もっとこう、たぶん地下道の柱の陰でチュッチュッしてる人がいたせいかもしれんがおまいは俺のことが理解できないし俺はおまいのこと理解できないからもうちょい距離置いて書けよという感覚が恐怖に転化して気持ち悪くなってああこれはリアルツイートすると通報されるからツイッターで静かにツイートして吐き出そうと思ってこわい、こわい、とつぶやいたりしてのちに帰宅して着エロ見て2本抜いたら少しずつ落ち着いてきた。心理学というのはおまいらの想像している心理学じゃないよと前置きされたうえで受けていた心理学の講義の即物的な、あまりに物理的なというか、どう理屈ならべても心理学の作用だから抵抗しようがないしせいぜい賢しげに理屈ならべても仕方ないよな、トントカトントカ、という気分のことを心理学の奴隷とよく昔書いていたのだけどその作用なのだろう、ふいにサトミが、相模原の家に来て一緒に鍋しようよ家族とも会ってほしいし、と言ってきたときの自分の当惑に対して断る以外の選択肢なんてあったろうか、と俺は思った。非モテというより非コミュというか、若い時期なので男を見る目のない女子もいるだろうしそうして何度かひっかかって少しの時間を一緒に過ごした人たちのことばを切り取って都合よく自分を禿増そうとしている、今こうして書きはじめるまでは自覚できなかった自分の心理学の奴隷っぷりに唖然としたわけだ。どうあれそういう心理学のカテとして脳内では勝手に使うことのできる断片なので脳内で使うにとどめたらよいしそれはそれ以外の使いようもない記憶なのだがたぶん、もしも自分が本当に底をついて「それなり」のことができずになにもないところ(屋根の有無は分からない)でどうにか過ごせ、1000時間とか10000時間とか、てなるともしそこにノートとえんぴつすらないのだとしたら辛かろうな、逆にそれがあればどうにか、F欄大学の自習室の机の仕切りに顔をうずめて好き勝手に書いていたころをうん十時間をやり過ごしていたころを思い出しながら思うのだった。「出会い系にハマっていた頃」装わなければいけないことの楽しみと億劫感、それはちょっとクロスバイクで100kmぐらい走るような憂鬱感となし終えた後の爽快感覚があってほいじゃあと言って別れたあとで聖蹟桜ヶ丘のあたりを曲がって進む、(親の)自動車のハンドルを握りながらおのずと鼻歌が出てくるそんな瞬間と帰宅後の日記を書く楽しみ、それのためのデートだったんじゃないかと思うほどで100km走るよりもその後のビール、という言い方のほうが一般的なのだろうか、その構図は自覚しながらも若いからもう一つセックスの問題が小さくなかった。というか二つコンボでやはりそういうのは億劫どころか毎日でも、だったことを思うにどう言い訳したところでやはりこれだけ数の少ない期間の短いのは無能の極みであるよな、たとい今、外見は佐々木希、振る舞いは田中みな美、知性は荻上チキりん、テクは香川真司みたいな女の子が1億円の持参金とともに結婚してくれ!と言ってきても断る、などと言ったところで本当のところはどうだか、トライしてしくじって砕けてズダボロにされてさらに人間不信の度合いを深めるという結果になってしまうのだろうなとも思う。200x年にしたってどう考えても無理筋でありながら結局電話には出たし土間土間には言ったし部屋まで連れて来たし(ry)鳥したし貸してたCDと本とメールの返信は帰ってこないのだ。なんなんだよその急変ぶりは。なぜそのときのケーキの箱の紐1本を後生大事に保存してるんだよアホか、「あまりにも突然のことでいまだにそれが本当に起こったことなのかどうか確信できない」からのための記念として。でもそこから今のはてなダイアリーまで地続きだからこれを読んでいたらどう思われるんだろうか、とか。(もちろん男と違って、今もしぶとく読まれているなんてことはありえないのだが)