かつて、どうやってブログを書いていたのか

α55 + SIGMA 85mm F1.4 HSM
ネットに書かれているものは、雑誌に書かれているものとは違うという感じがあった。自分のぼんやりとしたイメージの話であって、それも深夜から早朝になりかけてもなお眠れなく、仕方なくブログを書いているような今の頭の考えることだから本当にあいまいな、ほわほわしたイメージだけども雑誌に書かれているものはお金を稼ぐことが目的の大部分を占めていてネットに書かれているものはそうじゃない理由の、という区別が機能していて読む側としてはネットか雑誌か、で区別すれば良かったのだが最近は、有用な情報を探すのにネットが役に立つ機会が圧倒的に増えた代わりにもとの、「ネットに書かれているもの」の、お金を稼ぐことが目的の多くを占めていてネットに書かれているものはそうじゃない理由のほうの、そういうものの探し方がよく分からなくなったと言いたいような気分になることが増えた。べつに方法はあるかもしれん。ブログに広告が貼られるようになったのだから、そちらは有用な情報がきちんと整理されていないものはややこしいからもう見るのをやめて、アノニマスダイアリーだけ読めばいいじゃないか、という割り切りをしたらいいのかもしれないけれども。
 
 
 
α55 + SIGMA 85mm F1.4 HSM
基本的に文章だけで行く、みたいな気持ちはもともとなく、しかし、ほかに言い方が思いつかないから敢えて「コンテンツ」という言い方で言うと、コンテンツの、自分なりの取り決めではシーケンシャルに見ていくもの、紙の本がそうであるような、1ページ目から最終ページ目まで順番に見ていくものとしての、コンテンツを書きたいというような、おじさんの悪趣味の一つとしては、はじめのころは強調文字は使えるが傍点が使えない、などの制約が気になりつつも、写真を入れる、ということは紙の本にもあるし、その方向で、それでも文章がメインでないと進まないという感じがあったのだが、いやコンテンツといっても、自分が自分で書いてから数日間のあいだは読み返すことに耐えられるようななにかを、そういうものを書きたい感じでいたのだが最近はもうブログは全然更新していないし、毎日きちんと更新するのは写真のほう、ということになっていった。なんの我慢大会だろうか、毎日毎日最低1枚は自分でポチッたカメラで自分でポチッた写真をアップロードする、それを継続し続けなければ死ぬ、というぬるい、とてもぬるい制約だけが人生の制約であるような自堕落な、救いようもないというか、救い甲斐のないライフを進めているという事実を直視しない毎日。それでもそうしたルールを、とてもぬるいルールを課して守っていくことぐらいしかすることがないので必要悪のような感じでやっているくせして、そういうものに「いいね!」がつくと、どんどんブロックしてスパム報告していった。フリッカーにせよ、ブログにせよ、内容に関わらず★印をつけていくアカウントをにどんどん心が滅入っていった。なんでそう感じるのかを説明するのにも取り越し苦労を通りこしてそういうのに応対するのもやがて、もう面倒くさいとすら思うようになっていった。そして事実は失礼とか、そういうことでなく、世の中はそういうふうになっていって、俺の頭がついていけていないか、もしくは、俺が日和って、金銭収入を目的に書かれるようなものに似たものをかつて書いたりしていた報い、報復なのかもしれないな、この文章だってどうせ、そういうタイプの気違いになっていった。
 
 
 
α55 + SIGMA 85mm F1.4 HSM
撮りたい写真はなかった。正確には、20歳近辺の女子にお金を払って撮りたいように撮ることを楽しく感ずる素養が自分にないことが分かってからの迷走は加速した。本当は先に2Fの窓際の座席で待っているとあとから20歳近辺の女子が二人分のポテトやシェークを一つのお盆に乗せて笑顔でやってくるところを撮りたかったのだろう。もっと若い時代のことに感想はない。もともとものごころが20近くになるまでつかなかった俺にとっては、たぶん20歳前後の自分の生活が最初の、こういうはずではなかった感、それがそうではなくこういうかたちになってしまったという現実との折り合いがつかないまま進んだために後で、つまり今最近になって、潜在的に、深層心理の命令で、脳の指令で、埋め合わせるように、思い出の捏造として、LEICA M6 TTL 0.85 + SUMMICRON 50mm で撮りたい、のような願望となって出てくることを心の底では気づいているのに現実にはPhotoyodobashiの中の凡庸なほうの人たち、街の人々の後ろ姿を浅い被写界深度で、みたいなものしか撮れないでいるという現実の直視ができないから進まない、あいかわらずだ、という不満のくすぶる写真になっていくのだろう。ときどき古い深夜番組の動画を楽しみながら出演者がこれを見ているのはモテない30過ぎの男性たちだけなんだから、という意味のことを言うとき、香港のカメラレビューサイトのプレゼンターが視聴者のみなさんにとって最大の親友はISOオート機能ですよね、というとき、LEICA M2というのは朝から夜から自分の気の済むまで好きなようにいじりまわし愛撫し覗き込み続けていても訴訟を起こされたり離婚されたりなどしない合法の、この世で唯一の美しい存在である、と宣言するとき、それを笑って聞き流せないでいる自分を見出す。口元の右側がヒクッとする。誤魔化している。避けている。そんなことだから、その作品自体に心を動かされたことは一度もないようなKen Rockwellの、アマチュア風景写真家に寄ったカメラ説教に耳を傾けてしまうぐらいに弱っているんだろう。彼の"help me help you"が俺になんの意味だかさっぱり分からんと感じさせることと、なにか関係があるかもしれないし、ないかもしれん。
 
 
 
α55 + SIGMA 85mm F1.4 HSM
夜の街は写真を撮る人で満ち溢れていた。シグマのトロい4000万高画質コンパクトに三脚をつけて撮ろうとしている人もいたし、ソニーのクソ低画質のTLMカメラに大ボケ単焦点レンズをつけて、ちょこまか距離をつめたり話したり動き回りながら他人がなにかを撮る姿ばかり撮っているキチガイもいた。本当は2Fにポテトとシェークを一つのお盆に乗せた篠田麻里子を撮りたいくせに撮れないからといって。
マツコ「なんのために撮っているのかしら」
有吉「ブログに載せたいんですよ」
マツコ「そうなのー? なんで?」
有吉「ブログにアップする。そして、つまるところは、いつかは俺のアートの才能が認められて・・・」
マツコ「そんなことなの!?」
有吉「ほかにありえないでしょう」
 
 
 
ZEISS IKON ZM + TELE-ELMARIT-M 90mm F2.8 (KODAK G 400)
毎年末に手持ちカメラの整理話をブログに書いていたけど、今年はどうするかなーと悩む。もう買わねえと宣言した年始と今とでもう全然違う。
オリンパスXAはこれじゃない感。ヤシカエレクトロ35はピント合わせに苦労しそうだ。キヤノネットはシャッター速度優先。ミノルタのなんとかもそう。ライカL/Mマウントから入ったけれどももっと安いものはいくらでもあるじゃないか数百円でカメラ買えるじゃねえかと気づいたつもりが結局、それらはそれらの値段相応の難点をかかえている。センサーは全部同じだ。フィルム次第だ。だからカメラの大きさ、使い勝手、デザインに各社意匠を凝らしてバリエーションも豊かになったがLEICAには勝てなかった一方で一眼は、単調をきわめた。単調なデザイン、複雑すぎるメニューとカスタムファンクションの山。それも修理に出すと勝手にリセットされてしまうカスタムファンクションの山。外観は黒い粘土の塊だ。ではミラーレスはどうか。ミラーレスは各社自由にデザインしただろうか。ズームレンズが主流になったためにファインダーも位相差AFもピーキングもコントラスト通信内容もなにもかもがズームレンズ向けになっていって単焦点が使いにくいカメラへとどんどん突き進んでいるようにしか見えなかった。画角が頭に入ったら、よく言われることだけどあまり実践している人を見かけないようなところの、被写体距離、背景距離を意識したフレーミングと50mm F0.95。そういうものをしたいと思えば思うほど、いやフルサイズにこだわるのは異常だという言い方が使用レンズとしてズームばかり挙げているのならばその通りだと俺の撮り方からは感じるが、50mm F0.95。
 
 
 
BESSA L + COLOR SKOPAR 21mm F4 (LOMOGRAPHY 800)
写真を撮ると記憶が薄れる? 人生を直視したくないし忘れたいから撮ってるんだよ。言わせん(ry