写真と写真の感想文に釣られて

id:aureliano さんが id:heimin さんと絡んでいるのが面白かった。

金髪の歯の欠けたおっちゃんが、手に何やら持って、それを野球のバットのようにかまえて、こちらに向かって微笑みかけている。
ここには生命というものの真実がある。剥き出しの真実がある。それは身も蓋もない真実で、どちらかと言えば夢がない方の真実だ。人間の、生きることの、生命の矮小さを、余すことなく映し出している。
永遠に夢見がちに生きたいぼくにとっては、この手の写真はきつ過ぎる。その上、そういうきつさをさらに回避しようとする、世の大多数を占める逃げ虫たちにとっては、さらにきつい写真になっているのではないかな。
http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20080922

ほいで、それとは違う写真について、ごっちゃにしつつ引用すると、

これは、人間の生命の価値というものを真に認め、そこに深くコミットしていきたい層にとっては大きな勇気となるはずだ。鼻に管を突っ込んだおばあちゃんからこの顔を引き出したということが、彼らに生きることへの元気を与えると思う。
http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20080922

人間の生命の価値というものを真に認め、そこに深くコミットしていきたい層」という言葉にインチキ臭いレーダーみたいなのが反応して、誰かに消毒されちゃうんじゃなかろうか、[abstract]すぎないだろうか、言葉足らずではなかろうか、みたいなことを最初に感じたのだけど、そこから派生して、飽くまで創作的な話として、クリエイティブなものの効果を上げるために多少のフィクションなりデフォルメあってしかるべき、というハックルさんの立場で、平民金子さんの作品はそうではなく「ありのまま」のすばらしさだ、と言っているように見えた。でも、それは違うんだろう、と。

自分が初めてカメラを持ち歩いたのは10年も前の学生時代に海外旅行していた時期、その手の先人のプロの写真集などを見るにつけ、自分の心が動くのは、風景写真も良いのだけど、やはり人の顔だなぁと。エッセイの中には、やはり顔だよ、人を撮るのって、いろいろ大変なんだと、それはやってみて分かった。バスやドミトリーで出会う薄着の欧米人旅行者さんたちの胸チラおっぱい写真なんて別に撮りたくなかったけれど、旅の中で、撮りたい人はものすごくたくさんいた。敢えて3つ挙げると、シベリア鉄道のいちコムパートメントを独占していたインド人の大家族(子供たくさん)、タバコを吸いに連結部へ歩く途中でふと覗いてしまったら全員と目が会ったのだけど目が白い、と思った、そのときの写真と、二つ目は、ボスニア・ヘルツェコビナのサラエボからモスタルへ向かう電車の中で知り合ったおばちゃんに聞いて(私はドイツ語を履修していたが、ドイツ語は話せなかったので、サラエボで知り合った道連れの日本人に一部訳してもらいつつ、だが)それで向かった、聖マリアが「出現」するというイスラム国(でもないか・・)の中のキリスト教の聖地、モスタル・メディゴリエの険しい石山のてっぺんに立つ十字架へ向けて素足で、足の裏に少し血を滲ませながら、ひとりで真剣な顔で登っていく白人の若い女性・・・その人は欧米人って感じがしないくらい小柄だったので、最初、日本人?って思ったのだが。そして三つ目は忘れたけど、はるばる旅しながらも撮りたいものを撮れない、なんとなく自重という次元と、でもその先に、撮りたいものを撮るのだが、撮るからには、きちんと撮る、そのための裏づけというか技術というか、理由というか誠意というか熱意というか人生というか、さらに突き詰めると、クリエイティビティというかフィクションというかデフェルメというかエンファシスというかコミュニケーションというかコンサルティングというか、なにかがあるような気がしたので。「ありのまま」という言葉の使われ方は、今のところ、少し軽くて手垢がつきすぎの気がするのだ。

一眼レフカメラ欲しいなー、とか思いつつ、俺、どうせ撮りたいもの撮れないし、とも思うので買ってない。

子供のいる人が子供の写真を山ほど撮るのって、すごく、分かる気がしたり。