ルーマニア

チャウシェスクが中絶を禁止したのは目標を果たすためだった。人口を増やしてルーマニアを速やかに強化するためだ。1966年までのルーマニアは世界で一番中絶に寛大な政策を採る国の一つだった。実際、産児制限の主な方法の一つが中絶で、出産1件に対して4件の中絶が行われていた。そんな中、ほとんど一晩で中絶が禁止された。例外を認められるのは、すでに子供が4人以上いる女性の場合と共産党で高い地位にいる女性の場合だけだった。同時に、避妊や性教育も全部禁止された。担当する政府の要人は皮肉をこめて生理警察と呼ばれ、定期的に女性の職場を巡回しては妊娠検査を実施した。女性が何度も妊娠しないでいると、高い「禁欲税」を払わされた。


   (中略)


「ほとんどは13歳から20歳の子供たちでした。」ティミショアラの大虐殺から数日後、チャウシェスクブカレストで10万人を前に演説した。このときも若い人たちが大挙して押し寄せた。彼らは「ティミショアラ!」とか「人殺しを打ち倒せ!」とかと叫んでチャウシェスクを黙らせた。彼の時代に終わりが来たのだ。チャウシェスクとエレナは10億ドルも抱えて国から逃げようとしたが捕まり、形だけの裁判で、クリスマスの日に銃殺された。
 ソヴィエト連邦の崩壊前後に権力を追われた共産党の指導者の中で、惨殺されたのはニコラエ・チャウシェスクだけだ。彼が殺されたのは、ルーマニアの若者たちによるところが大きい点は決して見過ごせない。彼らの多くはチャウシェスクの中絶禁止がなければ生まれてこなかった子供たちだった。
(『ヤバい経済学』)