自分は写真がなぜ下手か問題

DXC-RX100
自分は写真がなぜ下手か、と問うときにそれと平行して、"写真が下手"という言い方がそもそも気に食わないという気分もあり、なぜ俺は俺の写真(の集積)が嫌いか、と考えるとき、やはりまとまりがなく、いやまとまりはどうしても必然的にはあり、それは俺そのものだということも可能だが、印象としては、まとまりがない、という感じがしっくりくる。べつにまとめるために撮るわけでもねえしな、とも。そして、今日も写真が「すべった」というのはすごくピンとくる。「イキって」「すべる」そういうものだ。では、すべらない写真がよい写真なのか、小籔先生の話もよく分からない。
トリンドル「では、なにを撮ればいいんですか」
小籔「家族、友達、大切な人、そういうものを撮りなさい、10年後、20年後、そういうものが貴重になる」
年に一度親戚で集まるときに写真を撮ることは俺の作業にはなっていて、それはそれでそれなりに気合をいれてやっているが、いろいろあって来年からはもう集まることもないかと思う。あるかもしれん。分からん。写真は「イキる」もの。「イキって」「すべる」もの。

物欲とのかかわり方

すべての撮影は新しいレンズのお試しである。すべての撮影は作例である。すべての写真がデジカメWatchである。所詮はデジカメinfo。DigitalRev。きむぇりはマッチョ。DRTVはナイフ持参。みんな背が高い。戦争だ。芸術のことを考えているんだろうか。アートに関心はないが、芸術には関心がある、と言いたいのだろうか。それは絞りとは言わずにアペチャと言っちゃうタイプの? それ同じ? ともあれ買い物の予定なく外出は困難、直近購入物の持参なき外出は困難。ビリンガムのバッグにいざというときに役立つ補助品をいろいろ工夫して詰めて出かけてみたが重いだけだった。もっとも軽い袋に、必ず使う最小限の機材だけで出かけるべきだったと痛感した。